『今の時を生かして用いなさい』エペソ第5章15〜21節

光の子らしく歩きなさいという意味

 日野原重明先生は7年前から日本全国で「いのちの授業」を行なっておられます。今までに200校近くの小学校でいのちとは何かというテーマで「授業」を重ねてこられました。その授業で「いのちを持っている人?」、それから「いのちはどこにある?」と質問すると、片手か両手で胸を押さえます。

 つまり、心臓に「いのち」があるとう反応を見せるのです。そこで持参した聴診器を用いて子どのたちに心臓の音を聞かせ、心臓は「いのち」ではなく、酸素や栄養物を取り込んだ血液を脳や手足に送り出す「ポンプ」であることを説明されます。

 

 それから、「君たちは朝起きてから夜寝るまで、自分の時間を何に使っているの?」を質問され子どもたちに応えてもらいます。そこで、君たちは自分の使える時間を持っている。その時間はいのち同様、君たちの目に見えない。「いのちとは、君がこの世で使うことのできる時間なんだよ」と。

 

 すると、子どもたちは、ハッとした表情を見せるそうです。そので「君たちはその大切な『いのちの時間』をみんな自分のために使っているね。でも、君の『いのちの時間』を他のいのちのために使わなければいけないよ。人はそうやって、お互いの『いのちの時間』を分け合って生きて行くものなんだよ」と。

 

 そこでエペソ人への手紙の5章16節を中心に、この朝は「今の時を生かして用いなさい」と題してメッセージいたします。

 

 パウロはエペソ人への手紙の5章8節で「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。」と言っています。闇とは何でしょうか。俗にあの人に暗いところがあると言えば、後ろめたいところがあるということです。あの人は東京に暗いと言えば、東京のことを知ら、東京のことについては無知であるということです。闇とは罪のことであり、神を知らないことです。

 

 その具体的な人間の姿がこの5章3節から5節に書かれています。5節には「あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神の国をつぐことができない。」

 

 そのような生活をかつて送っていた私たちが「今は主にあって光となっている」のです。つまり、イエスさまに出会い、罪の中、欲望の中に死んでいた者が、キリストの命、キリストの愛に生きる者とされたのです。どんなに罪深い人でも、どんなに暗黒の中にいる人でも、イエスさまにお出会いすると、その罪を赦されて新しいいのちとイエスさまの愛に生きる者とされるのです。これが「今は主にあって光となっている」ということです。

 

 イエスさまを見たとか知っているということではなく、また、修養や教育によるのではなく、イエスさまを信じた者、出会った者はだれでもイエスさまはそのような生涯に入れてくださるのです。その私たちに、「光の子らしく歩きなさい」と勧めています。それは「光の子らしく生活しなさい」という意味です。ある聖書は「光の子らしく行為しなさい、行動しなさい」と訳しています。それをパウロは15節以下の箇所でいくつか具体的に述べていますが、その一つが16節の「今の時を生かして用いなさい」です。

 

 先週の主日の午後、韓国のソウルから来てくださった劇団「いのちの木」が「約束」と言う劇を演じてくださいました。家庭環境の劣悪のためぐれていた一人の生徒を教師が立ち直らせるお話しです。その先生が若くしてガンになり余命3ヶ月と告げられます。ところが、入院して治療を受けるのではなく学校の現場に帰らせてほしいと医者と上司に嘆願するのです。その時、朴先生が言います。

 「私に与えられた時間があまり残っていません」と。

 

 この時間に対する私たちの態度は非常に大切ですから、聖書は時間について多くのことを教えています。私たちが時間の使用ということを考える時、ぜひとも考え、心に留めなければなければならない3つのことがあります。

 

 まず、私たちは、①時間は経過するということに注意しなければなりません。つまり、時間は決して停止していません。この郡山市の東側を阿武隈川が流れていますが、橋の上から朝見た水が夕方にも同じ所に留まっているということはありえないのです。ちょうどエレベーターに乗って運ばれるようなものです。私たちは、時間によって不可抗的にどんどん運ばれて行くのです。そしてあっと言う間に年を重ねるのです。

 

 ②時間の短さということです。詩篇90篇10節に「われらのよわいは70年にすぎません。あるいは健やかであっても80年でしょう」と歌われています。それはかなり長いように思われます。しかし、睡眠時間や生きて行くために必要な時間を差し引きますと仕事の時間は30年くらいです。ですから、有益なクリスチャン生活と主のための奉仕の時間を持つために、どうにかして時間を切り詰めなければならないことに気づかれるでしょう。

 

 聖書はいのちの短さについて切実に語っています。ヤコブの手紙4章14節では「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれ、たちまち消えて行く霧にすぎない」と言っています。谷間に充満し、山々をおおっている朝の霧を見られたことがあると思います。霧じっとそこに停止しているようですが、太陽が昇ると、それは薄くなり、永久に消え失せます。私たちは十分な時間を持ち合わせていません。ですから、それを少しでも失ってはならないのです。

 

 ③時間の急迫ということです。私たちの時間は、わずかで、しかも、なすべきことは、なんと多くあることでしょう。皆さんは、お客さんをお迎えるために準備をされた経験をお持ちだと思います。それがどういうことか、ご存じだと思います。台所、客間、トイレ掃除、買い物、食事や茶菓の準備、時間は限られているのにしなければならないことはたくさんあります。このように、時間はわずかで、その間、するべき仕事が多いように、だれの人生にも十分な時間がないということです。

 

 聖書は「今は悪い時代なのである」と言っています。ミヒャエル・エンデというドイツの児童文学作家が「モモ」という本を書きました。内容は時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれたモモという女の子の不思議な物語です。今の時代は人々から生きる意味を奪い、「よい暮し」とはこのようなものであるとイメージさせ、本来の人間らしい生活を奪って心の中を荒廃させていることを取り扱ったものなのです。

 

 今の時代、神と関係のない生き方に人々を誘惑し、神と全く関係ない時間の使い方をさせる時代です。そのために、直接、キリストのために、教会のために使う時間が奪われ、教会は人手不足で神の働きが停滞しているのです。

 

 具体的にどのような人生を歩むとしても、すべてのクリスチャンにとって、人生の根本の目的は「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(Ⅰコリント6:20)に尽きるのです。イエス・キリストの十字架という尊い代価が払われることと引き換えに罪と死の奴隷から解放されたクリスチャンは、その自由と喜びの中で、「自分のからだをもって」、すなわち全身全霊をもって、また全生活を通して神の栄光を現すこと、に尽きるのです。

 

 そのために聖書は「今の時を生かして用いなさい」と勧めています。これは「時を贖いなさい」という意味です。贖いというのはイエス・キリストが十字架にかかって血の代価を払って罪の奴隷から、サタンの支配から買い戻してくださったことを意味します。それは、スーパーで代金を払って買い物するように、「時を買い求めなさい」ということです。もし私たちが、時間を買い、時間を用いようとするなら、私たちはそのために代価を支払わなければなりません。代価とは神が望んでおられることをするために、自分のしたいことをしないということです。

 

 そのために大切なことは、

 

 ①神のみこころが何であるかを識別して知ることです。16節、17節に「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから、愚か者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。」と言われています。クリスチャンとして主のみこころを知ることです。

 

 ②神のみこころの優先順位を知って、私の時間の使用法を決定することです。スーパーに行きますと様々な品物が並んでいます。私たちはその中から必要な品を選んで代価を払って買います。

 

 それと同じように私たちの目の前に、種々の時間が箱に入れてあるのを見ます。そこには勉強する時間、働く時間、交際の時間、買い物の時間、家族団欒の時間、訪問の時間、祈りの時間、愛のわざに励む時間、あかしの(伝道する)時間、教会集会の時間、教会奉仕の時間、他の人の世話をする時間、テレビ・新聞を観る時間、休養の時間、自由時間、庭の手入れの時間、女性の方々なら洗濯、掃除、料理もあります。その他様々な時間があります。その中から時間を買い用いるために、①神のみこころを知り、②その優先順位を知って私の時間の使用法を計画することです。

 

 神様は買い物や運動や休養がいけないと言っておられるのではありません。「今の時を生か」して、神のみこころに生き、神の栄光のために生きることを望んでおられるのです。

 

 「今は悪い時代」です。ひとりの少女がいました。彼女は毎日曜日、家庭に帰ってからの仕事は日曜学校で習ってきたことを絵に描いて家族に話すことでした。ある日は、新約聖書の物語でした。母親はいつものように楽しみにして彼女の所に来ました。ほとんど絵は出来上がっていました。母親は彼女に言いました。「でも、イエスさまはどこなの」。少女は答えました。「まだイエスさまを書き入れてないの」。その画面で残っている余白は、小さな部分だけでした。少女はその小さな余白に、小さなイエスさまを書き入れました。

 

 私が教えられることは、私たちが、よほど注意していないと、クリスチャンと言いながら、イスス・キリストを全く押し出して、自分の好きなように生きてしまう時代に私たちは住んでいるということです。

 

 韓国から東日本大震災の復興支援コンサートのために東北に来てくださった賛美・演劇チームが帰国される6日(金)の朝、須賀川シオンの丘でお会いし、郡山駅まで車でご一緒に行き、新幹線に乗って成田空港に向かわれる一行をお送りしました。駅前の広場でユン先生の通訳で私が挨拶をしました。最後に「お互いはここでお別れになりますが、それぞれ生かされているところで、クリスチャンとして、『「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられる』ように励みましょう」とご挨拶したところ、全員が、瞬間、はじけるようなすばらしい喜びの顔に変わり、とても大きな声で、「アーメン」と言ってくださったのです。

 

 その時、クリスチャンであるということとイエスさまのために生きるということは何と幸いなことだろうかと感激で心が一杯になり神さまに感謝しました。皆さんもアーメンでしょうか。

 

 時間は経過します。②時間は短いのです。③時間はわずかですが、すべきことは多くあるのです。そのために①神のみこころを知り、②優先順位を知って私の時間の使用法を計画することです。神は買い物や運動や休養がいけないと言っておられません。「今の時を生かす」ため、真に計画的な毎日を過ごすことを望んでおられます。

 

 また、週間、月間、年間、休日も計画が必要です。今は悪い時代です。大切なことは、時代に流されないで「いのちは時間」であることを深く認識し、御霊に満たされて今の時を生かして神の栄光ため、永遠に価値ある人生を全うすることです。