聖研の学び「キリスト伝-2」

2017/1/11-12

テキスト 金井信生 牧師

聖 書  ルカ1章1節〜25節より


メッセージ要旨


主イエスの降誕に先立って、御使(ガブリエル)がザカリヤとマリヤとヨセフに主の言葉を告げました。

 

1.ザカリヤへの告知(ルカ1:1−25

ザカリヤはエルサレムの神殿に仕える祭司であり、妻のエリサベツもアロン家(モーセの兄の子孫)の娘でした。ふたりは「神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行って」いました。

このザカリヤがくじに当たって、聖所の中での務めにあたることになりました。神の民を代表して祈りをささげる重要な務めです。この「くじ」は、家柄や人柄、業績や忠実さ、あるいは年功序列など人の思いによらない、神様の選びを象徴しています。

 

一生に一度の大役でしたが、定められた手順通り行えば、ザカリヤは無事に務めを終えるはずでした。しかし、ザカリヤの前に主の使いが現れ、ザカリヤ夫妻に男の子が生れること、その子は救い主に先立つ役目を担うことを告げました。

 

しかしザカリヤは御使の言葉を信じることができませんでした。そして、子どもが生れるまで口をきくことができなくなりました。神殿から出て、集まっている人々を祝福することができず、務めを全うできませんでした。

 

このザカリヤの姿は、形はあっても、主との生きた交わりがない「死んだ信仰」をあらわします。ザカリヤの名は「主はおぼえておられる」という意味ですが、子どもを与えてほしいという願いはもう聞かれていないと思っていました。アブラハム夫妻に子どもが与えられたのは二千年も前の昔話であり、神様が今も生きて働かれるお方であることが見失われていました。誠実に歩んでいますが、神様が人の思いを超えて新しい事をなされようとするときに、自分を委ねることができませんでした。

 

それでも主はザカリヤをおぼえておられ、ザカリヤを用いられます。口のきけない間、ザカリヤは主の前に自分を持ち出す本当の祈りの日々を送り、やがて子どもが生れて名前を付けるときに、主のご計画に従う信仰に立たせてくださいました。

 

2.マリヤへの告知(ルカ1:26−38

六ヶ月後、ガブリエルはナザレに住むマリヤのところに行って、「身ごもって男の子を産む」ことを告げました。マリヤには驚きだけでなく、恐れもありました。子どもが与えられることは、ザカリヤにはあり得ないことではなく、周囲からも喜ばれることです。しかし、まだヨセフと一緒になっていないマリヤにとっては、人々から責められることであり、石打の刑に処せられる恐れもありました。

 

しかし、マリヤは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。」と、完全に主に自分を委ねていく信仰を言い表しました。「主が言われたようにいで立った」(創12:4アブラハム、また「わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」(エステル4:16と言ったエステルの信仰をそのまま受け継ぐものです。

 

また、「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42とゲッセマネで祈り、十字架に向かってくださったイエス様の母となるために、ふさわしいマリヤの献身でした。

 

3.ヨセフへの告知(マタイ1:18−24

ザカリヤとマリヤは当事者ですが、ヨセフには第三者として神様のご計画を示され、尻込みするのか、それとも主の言葉を受け入れ協力者となるのかという難しさがありました。

 

関わっていく、すなわちマリヤをそのまま迎え入れることで、これまでの「正しい人」という自分の評価を失います。また、「聖霊によって生れる神の子」の父親が自分につとまるのかという不安や恐れもあったことでしょう。

 

しかしヨセフは主の言葉を信じ受け入れました。神のご計画に従うことは、マリヤのそばにいる、共に歩むという決断です。

 

インマヌエル(神われらと共にいます)の主は、一人一人に伴ってくださるお方であり、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20と約束されるお方です。主を中心として、それぞれが主からの使命を果たしつつ、互いに交わり、祈り、支え合っていく信仰共同体である教会は、ヨセフとマリヤから始まりました。


賛美 新聖歌421