『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。』(ヨハネの第一の手紙 4章10節)
2016年10月22日・郡山キリスト共同教会・秋の聖書講演会1 浮田益夫師によるメッセージ
2016/10/22 午後7時30分〜
愛を知る人生…赦しの愛
説 教 浮田益夫 師
聖 書 ヨハネ8章1〜11節より
賛 美 新聖歌233
新聖歌248
新聖歌428
聖書箇所
8:1 イエスはオリブ山に行かれた。
8:2 朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
8:3 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
8:4「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
8:6 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
8:7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8:8 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
8:10 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
8:11 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
メッセージ内に登場する詩について
草に すわる 八木重吉
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
詩集『秋の瞳』1925年 より
クリスチャン詩人の第一任者として知られる八木重吉
(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 1927年10月26日)
東京・町田市に生まれた重吉は、師範学校時代に教会に通い、後に内村鑑三の影響を受けました。24歳で詩を書き始め、28歳で結核を発症。29歳で早世しているので、わずか5年の間に全作品3千篇が結実しました。
現代の詩人、谷川俊太郎がこの詩に触発されて
「間違い」(詩集『日々の地図』)
という詩を書いています。
間違い 谷川俊太郎
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
そう八木重吉は書いた(その息遣いが聞こえる)
そんなにも深く自分の間違いが
腑に落ちたことが私にあったか
草に座れないから
まわりはコンクリートしかないから
私は自分の間違いを知ることができない
たったひとつでも間違いに気づいたら
すべてがいちどきに瓦解しかねない
椅子に座ってぼんやりそう思う
私の間違いじゃないあなたの間違いだ
あなたの間違いじゃない彼等の間違いだ
みんなが間違っていれば誰も気づかない
草に座れぬまま私は死ぬのだ
間違ったまま私は死ぬのだ
間違いを探しあぐねて