『一粒の麦をまく』ヨハネ12章20〜26節より

一粒の麦が地に落ちて死ななければ、

それはただ一粒のままである。

しかし、もし死んだなら、

豊かに実を結ぶようになる。

(ヨハネ12:24)

2015年5月10日・郡山キリスト共同教会、金井信生牧師による主日礼拝説教


2015/5/10 午前10時30分〜

(5月第2主日・年度第19主日)

主日礼拝

一粒の麦をまく

説 教 金井信生 牧師

聖 書 ヨハネ12章20〜26節より

讃 美 新聖歌98

    新聖歌206

    新聖歌385

交読文 新聖歌57(コリント人への第一の手紙第13章)


説教要旨


 自分の姿を失って多くの実を結ぶ一粒の麦に、主イエスはご自身の救いを重ね、私たちにも意義ある生き方を教えられました。


1.一粒の麦となられたキリスト


  イエス様は、自分の命を保とうとはせず、むしろ十字架の道を進んでくださいました。私たちを救うためです。

 イエス様というただ一人のお方が十字架に死んでくださったことによって、信じる者すべての罪が赦され、神の子として永遠の命をいただく道が開かれました。多くの人が救われて、喜びがある生涯を歩んでいるのは大きな実です。またキリスト教の感化と影響の中で、社会にも医療や福祉、教育など、キリストの愛に生かされる実が結ばれてきました。


2.自分の命


 「自分の命を愛する」とは、自分の欲を満たし、自分の栄光を求める生き方です。目に見えない世界があることも永遠の命があることも知らず、目に見える世界だけに価値を置き、この世の命を保とうとして、結局空しく生涯を終えることです。

 反対に「自分の命を憎む」とは、自分の思いよりも神様の思いに従うことを求め、喜んで自分自身を神様に差し出す人です。そして具体的には、人を愛し人に仕える者として生きることです。この人は、永遠の命に至るとイエス様は約束されました。私たちを「麦の一粒」として、ご自身の生涯と重ね合わせようとしておられるのです。


3.命の使い方


 イエス様の十字架の死と復活は、私たちに逆転的な生き方と勝利を教えています。愚かだ、敗北だと見える十字架に、神様の愛が現れ、救いの御計画が成就しました。イエス様を信じることによって、滅びに向かう下り坂を下っていた私たちが、永遠の命に生かされ、豊かに実を結ぶ歩みに生まれ変わるのです。

 今日は母の日です。「一粒の麦」となって、自分の楽しみや時間を手放していく最も身近な例が、母親の姿です。出産そのものに大きな負担があり、命の危険があります。その後の子育ても、自分の楽しみを優先したらできません。


 母の愛に感謝すると共に、パウロが「母がそのこどもを育てるように、やさしくふるまった」(第一テサロニケ2:7)と記すように、周りの方々の救いのために、また救われた魂の成長のために愛と祈りをもって仕えていく者となりましょう。