『すべては信仰による』ローマ4章1〜16a節より

このようなわけで、すべては信仰によるのである。

それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、

アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。

(ローマ4:16)

2015年5月3日・郡山キリスト共同教会、金井信生牧師による主日礼拝説教


2015/5/3 午前10時30分〜

(5月第1主日・年度第18主日)

主日礼拝

神との和解

説 教 金井信生 牧師

聖 書 ローマ4章1〜16a節より

讃 美 新聖歌27

    新聖歌40

    新聖歌338

交読文 新聖歌2(詩篇第8篇)


説教要旨


 「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(3:28)ことは、アブラハムとダビデからも明らかでした。


1.義とされた人


  アブラハムが神に義と認められたのは、御言葉に従って出発したときでも、イサクを献げたときでもなく、むしろ落胆失望しているときでした(創15章)。


 ダビデが義と認められたのも、よい行いどころか、姦淫と殺人の罪を犯し、主の前に砕かれ切った時でした。


 将来の祝福を信じて義とされたアブラハムと、自分の深い罪の性質を示されて悔い改め、赦されて義とされたダビデと、ずいぶん違うようです。しかしどちらも、自分の行いで神に喜ばれようとするのではなく、自分には何もなく、ただ主の恵みだけに頼るところが共通しています。


 ダビデは、主に罪を赦されることはもっとも幸いであると歌っています(詩32篇)。神に義とされることは、どんな地上の恵みにもまさる祝福だからです。


2.アブラハムの信仰


 アブラハムの子孫であり、律法を守り行ってきたユダヤ人だけでなく、異邦人も信仰によって救われます。なぜならアブラハムが義とされたのは、後に律法で規定される割礼を行う前だったからです。


 アブラハムは、年老いてなお、子どもが生まれるとの神の約束を信じ、生まれたイサクを祭壇に献げても、主は生きて返してくださると信じました。


 ダビデは自分の罪の前に打ち砕かれて、あわれみによって赦された新生の経験を証しします。

 どちらも、人間的には望み得ないのに、神を信じて命に生かされる復活信仰をいだく者でした。


3.わたしたちの信仰


 「義」とは正しい関係です。アブラハムもダビデも、もちろんイエス・キリストを直接には知りません。しかし、神の言葉をそのままに受け入れ、自分を無力さや罪深さのままで主の前に明け渡すことによって、神に義と認められました。これは、そのように近づく者を受け入れて共に歩まれることによって、神の義も全うされるということです。


 私たちも、主イエスの十字架は自分の罪のためと受け入れ、復活を信じることによって救われます。そして「無から有を呼び出される神」が、私たちを周囲にあふれていく祝福の基として用いようとされることを信じましょう。