
2015年2月22日・郡山キリスト共同教会、金井信生牧師による主日礼拝説教
2015/2/22 午前10時30分〜
(2月第4主日・年度第8主日)
主日礼拝
小さな存在
説 教 金井信生 牧師
聖 書 マタイ13章24〜33節より
讃 美 新聖歌20
新聖歌233
新聖歌146
交読文 新聖歌40(詩篇第126篇)
説教要旨
「天国」とは神様の支配される領域です。遠くにある世界ではなく、私たちの生き方そのものにあらわれてきます。
1.命ある存在
「からし種」と「パン種」は、小さく見えたり、姿を消しているようでも、内に命があれば、必ず大きく成長し、またまわりに影響を及ぼします。
最初のクリスチャンたちは、このたとえを通して、イエス様の声を聞き、励まされました。今はイエス様を信じるものは少なく、また弱い存在で、社会に埋もれています。
しかし、イエス様を信じ、その命に生かされる交わりは必ず豊かに広がっていきます。そして人が疲れるとき、弱さをおぼえるとき、休みを与えることができるところとなっていくのです。
2.神様の評価に従う
「毒麦」のたとえは、自分の考えで裁いてはならないということを教えます。 自分を正しいとする人は、この世から毒麦を抜いて少しでも良くしようとします。しかし、イエス様は、今はそのように裁くときではないと教えられました。
良い麦か毒麦かは、人の目には区別できず、むしろ、人を罪人呼ばわりしている人が、神様から見たらまわりを傷つける毒麦と見られているかもしれません。自分の目で、基準で人を分けて裁いたりしてはならないのです。人を裁くことができるのは神様だけです。麦と毒麦は、最後に刈り入れの時に分けられます。今私たちが気にかけなければならない問題は、もっと他にあるのです。
3.神の前に小さな存在
神様は、私たちの存在や働きが今は小さく見えたとしても、内に命があれば大丈夫だと言われます。また、心悩ませる問題があっても、私にはたいしたことではないから気にしなくて良いと言われます。
天の国に生きるために最も大事なのは、神様の前に自分を置くことです。神様は圧倒的に大きく、自分は小さいのに、しばしば神様を押しのけて自分の基準や考え、やりたいことが大きくなっていることが多いのではないでしょうか。
「天の国」に生きるとは、主の言葉に、「はい、わかりました」と従うことです。私の小ささを気にしません。困難の大きさを気にしません。ただ主に愛されていることを喜び、キリストに結ばれている命を大切にしていきますと答えることです。
マタイ13章24〜33節より
13:24
また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。
13:25
人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。
13:26
芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。
13:27
僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。
13:28
主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。
13:29
彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。
13:30
収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。
13:31
また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、
13:32
それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。
13:33
またほかの譬を彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。