創世記1章2~5節

2015/1/14(水)・15(木)聖研

2節「地の状態」

 

神が創造された天と地について、「地は形なく、むなしく(新改訳:茫漠として何もなかった)(新共同訳:混沌であって)」と言われています。これについては様々な解釈がなされてきました。


もっとも分かりやすいのは、1節は天地創造全体のまとめであり、この2節では視点が地上に移っていると考える見方です。ちょうど、現代の科学でも、想定されているビッグバンから太陽系生成までの宇宙論と、地球の成り立ちから現在までの地球科学とが、重なり合いながらも分かれているのと同様です。


やがて人の住むところとなる「地」ですが、最初は「形なく、むなしく」とあるのは、「ふわふわ」あるいは「どろどろ」とあらわされるような、ただ形がない状態であるだけでなく、まだ意味や目的がはっきりしていない様子を示しています。


しかし、「神の霊が水のおもてをおおっていた(震える、働きかける意)」とあるように、混沌としていても、神様の創造の御手の中では準備段階であったのです。この後の聖書の歴史でも、生きる意味や目的がわからずに、空しく歩んでいる人間に対して、神様の救いの御手がすでに働き出していることを見ることができます。


3~5節「光の創造」


  神様は、まず最初に「光」を創造されました。混沌とした地と、闇に覆われていた深淵、すでに神の霊の(見えない)働きかけがあったにしても、そこに差す光はまさに創造のみわざの幕開けです。


光はそこにあるものと、これからなされることを明らかにしていきます。「神は命じられた、念じられた」ではなく、「神は言われた」とあるように、神様のみわざはいつも言葉でなされます。人の目に神秘ではありますが、隠れた所でなされるのではなく、光の中で、一つ一つ言葉をもって実行される少しの暗い所もない、神様のお働きが進められていくのです。宇宙の創造だけでなく、神様は言葉をもって歴史も創造されるお方です。(イザヤ9:755:10~)。


また、光はすべての命を支える源です。地球上にある生命が生きるために必要とする栄養やエネルギーは、(ごくわずかのものを除いて)、元をたどればみな太陽の光に行き着きます。光がなければ、どんな創造の働きもなかったのです。


次に神様は、光を見て、「良し」とされました。光そのものには意志も感情もないでしょう。しかし、光が光として神様の秩序の中に存在している、御旨にかなっているという点で、「良い」と評価されています。別に光は一生懸命光ろう、光ろうと思わなくても、そのまま光を放つ存在です。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」マタイ5:14)と言われた私たち主の弟子も、暗い世に光を放つものとならせていただきたいものです。


光が創造されたことによって、光と闇が分けられます。闇は光の無い状態であり、そのままでは何も起きず、何も変わりません。しかし、光があるところには始まりがあり、継続があります。そしていったん光が創造された以上、闇とは、光の届かないところ、光が遮られたところであり、神の「良し」とされたところではありません。


「神は光であり、神には闇が全くないということです。」Ⅰヨハネ1:5

創造の順序は、闇であり、混沌であった私たちの心の中に、御言の光、信仰の光が差し込んで新創造の御業が進められる順序であり、また「光の源」(ヤコブ1:17)である神、「世の光」であるキリストが内に住み、いつも照らされてゆく恵みの光あふれる生涯です。


「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」Ⅰヨハネ1:7


分けられた光と闇は、昼と夜となります。長短の変化はあっても交互に光と闇があるので、「禍福はあざなえる縄の如し」、また「冬来りなば春遠からじ」の思想の源になります。


しかし、聖書は、光の創造に始まって、最後は永遠の光で終わることを教えています。闇の消え去る時、夜もなくなる日がやがて来ます。暗い部分の一つもない永遠の輝く都、新天新地が私たちの信仰の生涯において最後のゴールです。