『主をほめたたえる』詩篇34章1〜9節

 私たちがじっくりと詩篇を学ぶなら、人間のあらゆる状況に当てはまる詩篇を見出すことができます。もう一つは、詩篇の作者の多くが結論を一番最初においているということです。この詩篇34篇も1節が結論です。

 この詩篇から恵みをいただくには、この詩篇の作者の背景の説明が必要です。表題に、「ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌」とあります。この詩篇の背景はサムエル記上21章に出ています。

 

 ダビデはサウル王から無実の罪で追われ続けていました。居場所がなくなり、イスラエルの敵であるペリシテ王のアキシのもとに身を隠さざるを得ないところまで追い詰められました。しかしそこでも自分の正体が知れそうになってしまいました。彼はひげによだれをたらし気が変になったふりをしながら、命からがら逃げました。このときのダビデはひとりぼっちで居場所もなく切羽詰って全くの孤独でした。

 

 ところが、ダビデが身を隠したアドラムのほら穴にはダビデの父の家の者たちばかりでなく、様々な事情の者たち400人が集まって来たのです。ダビデはその集団の長となると共に彼らは主を恐れる者としての交わりと堅い絆が生まれ、孤独の逃亡者であったダビデは大きな慰めを受けたのです。

 

 そこでダビデは、困難の中で受けた慰めを、覚えやすい一つの歌の形にしたのがこの詩篇です。ですからこの詩篇は苦しんでいる者への慰めを語りかけている歌なのです。

長い詩篇なので2回に分けて語らせていただきますが、次回は23日の礼拝になります。

 

 第一 主をほめたたえる 1節~3

 

 わたしたちのクリスチャン生活が生き生きしたものとなるための一つに「主をほめたたえる」という生き方があります。ダビデはその生き方が身についていて、「わたしは常に主をほめまつる」(1)と言いました。それは生活が順調であり、意にかなったことが起きてうれしいから「主をほめまつる」と言っているのではありません。なぜなら、19節で「正しい者には災いが多い」と言っています。

 

 確かに、彼は神に対して敬虔な生活を送っていました。しかし、そのダビデが災いの多い状況の中を歩んでいました。私たちも神の前に正しく生きて行こうとすると、いろいろな災いが起ってくるものです。そしてある意味では、いろいろな苦しみを受けるのは本当に神を信じているしるしなのです。そのような知恵のことばをこの詩篇は語っています。

 

 そのダビデが「そのさんびはわたしの口に絶えない」と言いています。彼は「常に」「あらゆるときに」「いつでも」神をあがめ、ほめたたえ、賛美しています。ときには主なる神に対する賛美で我を忘れています。私たちは常に主をほめたたえる心境に達することができるのでしょうか。そう尋ねられるなら、私たちは即座に自分の人生を取り巻く状況を考えて、心のなかでこう言うでしょう。

 

 「神さまが私の状況をご存知なら、そんなことを求められるはずはない。人生はあまりにも過酷で、いつも神をほめたたえることなどできるはずがない」と。

 しかし、私たちがイエス・キリストの十字架によって罪を赦され神との正しい関係にあるなら、私たちは生ける神の愛の中に生かされていることを実感するのです。

 そのとき、賛美は自分の弱さに向ける代わりに、神の完全さに向けさせるのです。つまり、「主をほめたたえる」ということは神に依存していることのあかしなのです。

 

 母は私が46歳のときに脳梗塞で倒れ入院しました。ある日、集中治療室から個室に移されている母を見舞いましたが、静かに眠っていて植物人間のようで全く応答がありませんでした。

 

 看護婦さんに聞きますと「再び目を覚まして会話することはおそらく不可能です」といわれました。そのとき人間は生死一切が神の御手の中にあって、生かされている存在であることを改めて思わされました。

 

 しかし、そのような状況でも賛美して神さまをほめたたえることを示されたのです。そこで、賛美を始めました。すると数曲目に口を開いて歌い始めたのです。やがて目を開いて、会話できるようになりました。

 それから1年、イエス・キリストの救いに与っていること、家族に愛されていることを感謝して過ごし、天に召されたのです。

 

 2節で「わが魂は主によって誇る」と歌っています。「主によって誇る」とは、神について語ることに喜びを見出している様子を示しています。

 さらに、「苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう」と言っています。これはサウロ王に追われて、絶対絶命にあるダビデのことばだからこそ、同じような苦しみにある人への慰めになります。

 

 イエスご自身、十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ2746)という詩篇22篇の初めのことばを口にしておられます。ダビデもこの言葉を繰り返し心にとめてこの苦しみの中を乗り越えたのではないかと思います。

 

 私たちは、キリストの十字架を覚えるとき、「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。」を信じますとの信仰告白に導かれます。同時に、キリストの復活の事実を覚えるとき、「試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道をも備えてくださる」(コリント1013)と真実な神を信じますという信仰告白へと導かれるのです。

 

 そこで「わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう。」と今、ダビデが私たちを主への賛美に招いているのです。 私たちの人生の営みの中でわずかな時間でもあれば、すぐさま自分の思いを神に向け、神への賛美に満たされることを目指しましょう。そこには私たちの想像を超えた恵みと祝福の世界があるのです。

 

 第二 主の恵み深いことを知れ 4節~9

 

 皆さんの中で恐れを取り去ってくださいと願われ、祈られたことはありませんか。かつて私は、自分が本物のクリスチャンになったなら恐れなど感じないだろうと考えていました。私はまた年齢を重ねていけば恐れを感じることも次第に少なくなるだろうと考えてもいました。しかしそれは真実でないことが分かってきました。

 

 多くの人は「苦しみや」や「人の目」を恐れて生きています。ダビデもその経験をしましたがそのすべての苦しみ、恐れから主に助け出されたと歌っています。4節に「わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。」と。ヘブル語の「悩み」ということばは、締め付けられる、押し込まれる、挟み付けられるといった内容を持っています。息ができなくなるような圧迫感です。それが恐れのもたらすものなのです。

 

 ところがダビデはその恐れから主によって助け出されたのです。その秘訣は「主を恐れる」ことでした。そのことが7節と9節で歌われています。

 

「主の使いは主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。」(7)。「主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。」(9)。

 

 ここでとても重要なことは、ダビデは恐れが取り除かれることを求めていないのです。むしろ主を求めていること、主を恐れていることです。そのとき主は窒息させそうな拘束力を打ち破ることのできるお方と気がついたのです。

 

 パウロとシラスはピリピで伝道しているとき迫害を受け、むち打ちののち投獄されてしまいました。本来なら気落ちして、「神様はなぜ私たちをこんな苦しい目に遭わせられるのだろうか。自分たちはどうなるのだろうか」と恐れふさぎこんでしまう状況でした。しかし、彼らは違っていました。神を信じる者の上に起こるあらゆることで、神に知られていないものは一つもないことを信じていました。それならば投獄されたことも神はご存知ですから、生死の一切は神のみ手の中にあると分かったのです。

 

 真夜中であるにも関わらず、神への恐れ(畏敬)の思いは、ついに神を賛美するということをもって口からあふれたのです。すると地震が起こり、やがては獄吏とその家族が救われたのです。信じ難いことが起ったのです。

 

 私たちは信仰生活をしていると諸事万端うまく行くという考えをいだくことがよくあります。人間は愚かですから自分たちの知恵、経験でもって、信仰したらこうなるんだ、ああなるんだという方程式のようなものを持ってきて、それで一切を割り切っていこう、

解決しようとしやすいのです。

 

 けれども神の世界とは、そういう人間の知恵で理解できる公式あるいは原理があてはまるものではありません。5つのパンで5千人を養われる世界、水がぶどう酒に変えられる世界なのです。その主を恐れる(畏敬)ところに神の不思議がなされるのです。ですから主を恐れ、主を求めることです。

 

 そのために主をほめたたえることです。なぜなら詩篇223節に「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです」とあります。新改訳では「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」とありますから、主を賛美するとき、そこに神は臨在してくださるのです。

 

 私が神学生の1年生のときの奉仕教会は関西のある教会でした。そこに主に忠実な教会役員の兄弟がおられました。この兄弟は会社から歩いて10分くらいの所にありました。それで出社するときも退社して帰宅するときもいつも賛美しながらでした。教会に来るときも帰るときも賛美しながらでした。人の常としていろいろ問題はあったでしょうけれどもいつも主の恵み深いことを体験しておられる兄弟でした。

 

 もし神との親密な交わりを望んでおられるなら、主を賛美することです。もし、主をほめたたえる生活をしていないなら今日から始めてください。あなたに与えられた、日ごとの恵みを感謝してください。あなたに起こっている問題さえも神に感謝してください。なぜならその問題を許可なさったのも主権者なる神だからです。そうしますと賛美を住まいとしておられる神は、あなたと共におられ、あなたの心を解き放ってくださいます。

 

 このようにして賛美をささげた後に、解き放たれた心をもって神のみ前に祈るとき、主の恵み深いことを味わい知ることになるのです。主は「恐れから助け出される」方、「悩みから救い出される」方、「満たしてくださる」方としてご自身を現してくださるのです。