『良いサマリヤ人』ルカ第10章25〜37節

 先週の礼拝は「声なき者の友の輪」(FVI)の神田英輔先生のご用でしたが、私たちクリスチャンは「神の国」の実現のために救われたのであると語られました。そして、その神の国の実現のために「私しかできない『小さな愛の種を蒔く』ように」、また、「土の下に多様な小さな愛の種を蒔くように」ともお語りくださいました。私は先生のメッセージを聞き、そのことが心に強く残り、導かれたのがルカだけが記している有名な「良いサマリヤ人」のたとえでした。

 

 第一 イエスと律法学者の問答

 

 25節から28節に、このたとえをイエスさまがお語りになった事情が述べられています。ある律法学者がイエスさまに「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」(25)と質問しました。これは当時の律法学者たちの間で論じられていた神学的なテーマの一つでした。このことについて律法学者がイエスさまの見解を求めたのは「イエスを試みる」(25)ため、すなわちイエスさまの宗教家としての実力をテストするためでした。そこでイエスさまは「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」(26)と質問されました。すると、この律法学者から、神への愛と隣人愛であると答えたのです。するとイエスは「あなたの答えは正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」(28)とおっしゃったのです。

 

 イエス・キリストによって救われたクリスチャンも頭で永遠の生命を理解したり、ことばとして論じるのではなく、永遠の生命を受けている者として、隣人愛を実践すること、生活の中で行うことです。神田英輔先生が言われたのも同じことで、クリスチャンは神の国の実現のために救われたのであり、その神の国の実現のために「私しかできない『小さな愛の種を蒔く』ように」とお話しになりました。また、犠牲を覚悟して惜しみなく「土の下に多様な小さな愛の種を蒔くように」とも言われたのです。

 

 律法学者はイエスさまがあなたの答えは正しい。そのとおり行いなさい」言われたとき、彼は自分の生活の中での愛の実践について顧みました。そして愛の不足、実際生活で実行できていないことに気がついたのです。しかし、彼は悔い改めず「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」(29)と自分の立場を弁護しょうとして尋ねました。そこでイエスさまがお話しになったのが「良いサマリヤ人」のたとえです。

 

 第二 祭司とレビ人

 

 エルサレムからエリコへの道のりは、30キロほどのかなりの下り坂で、非常に険しい道です。当時、この地方を治めていたヘロデ王によって行われていたエルサレムの大工事は終わり、失業者も多かったとも言われています。もともと強盗が多いところですが、そのような事情でその当時なおさらであったようです。

 

 「ある人」とはユダヤ人のことで、強盗に襲われ半殺しの目に遭い、道に倒れていました。そこを祭司が通りましたが、倒れている人の向こう側を通って行きました。彼は律法にあるように死体に触れ汚れることを避けたのでしょう。しかし、エルサレムの神殿での奉仕を終えて帰る途中ですからその心配はなかったはずです。さらにレビ人も向こう側を行ってしまいました。彼は倒れているユダヤ人に気づいたのですが、祭司同様に見て見ぬふりをして、向こう側を通って行きました。

 

 イエスさまが律法学者に「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」(26)と質問されると、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(27)と答えました。それに対して「あなたの答えは正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」とイエスさまは答えられました。ところが、祭司やレビ人の姿を見て、その通り行えない人間の弱さを見ます。その通り行えるならイエス・キリストの十字架による救いの必要はないのです。私たちは自分を愛するように、自分の隣り人を愛することはできません。ただ、神だけを愛していくこともできないのです。自分の気に入る人を愛することはできても、そうでない人を愛することはできないのです。人を愛しているように思っても、結局は自分を愛している。私たちはそういう弱さを持っているのです。

 

 第三 よいサマリヤ人

 

 強盗に襲われ半殺しにされたユダヤ人に本当に親切にしたのはサマリヤ人でした。ユダヤ人とサマリヤ人とは敵対関係にありました。また、サマリヤ人は大きな痛みを経験した人々です。イエスさまの時代より6~7世紀以前に、ユダヤの北の民がアッシリアに滅ぼされ、他の民が入って来て、混血が生じました。そのためにユダヤ人は民族の純潔が失われたと常にさげすむようなことばと態度を取りました。さらに悪いことに、イエスがお生まれになる100年くらい前には、サマリヤ人が礼拝していた場所を、ユダヤ人が打ち壊してしまいました。このように、彼らは非常に大きな痛みをもっていました。

 

 それにも関わらず、サマリヤ人は「彼は気の毒に思い」(33)ました。それで、その危険な場所に立ちどまって十分な介護をし、自分の家畜に乗せ宿屋に連れて行き、そこで介抱したのです。その上、宿賃2デナリを払い、それ以上の必要経費があれば、それも支払う約束をして旅だったのです。 

 

 このサマリヤ人の行動から隣人愛を教えられます。

 

 ①痛みをもつ人には、自分を傷つけた人が苦しんでいるのを見ると、いい気味だと思う人と、同情する2種類の人がいます。このサマリヤ人はさげすまれたからといって、仕返しをするのではなく、それでも共感できる愛をもっていたのです。聖書に「愛は恨みをいだかない」(Ⅰコリント13:5)とあります。またイエスは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)と言われました。隣人愛とは敵をも愛する愛です。

 

 ②祭司もレビ人も危険を避けて向こう側を通りました。しかし、サマリヤ人は、強盗に襲われる危険な場所に立ち止まって、この人を助けたのです。聖書に「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによってわたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」(Ⅰヨハネ3:16)とあります。「命を捨てる」というのは文字通りの意味ではなく、命を縮めるほどの危険、労苦を引き受ける愛です。隣人愛にはこの愛が必要です。

 

 ③犠牲を払う愛ということです。サマリヤ人は「近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いで包帯してやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」(34)のです。「介抱」するということは、とても含蓄のあることばで、いろいろな物をできるだけ用意をして、心配りし、世話することです。しかも、彼は「翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った」(35)のです。これは身銭を切る愛です。当時の宿賃は一泊12分の1デナリと言われていましたから、単純に計算すると24日分で随分のお金です。愛にはしばしば経済的なものが伴うのです。

 

 このたとえ話は、助けてもらう側のお話ではありません。私たちが助ける側の立場に立つことを、イエスさまは期待してお話しになられたのだと思います。では隣人を愛する愛に生きれるかということです。先ほどもお話ししましたように、私たちは自分を愛するように、自分の隣り人を愛することはできません。人を愛しているように思っても、結局は自分を愛している。私たちはそういう弱さを持っているのです。

 

 しかし、ガラテヤ人への手紙2章に「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(19〜20)とあります。イエスが私たちのうちに聖霊によって住んでくださるとき、愛に生きることができるようになるのです。別の言い方をするなら愛に生きるようになり、愛に成長していくのです。

 

 一番大切なことは、その人の痛んでいる心を聴こうと耳を傾ける気持ちです。そのことが私たちの内の共感する気持ちを強くし、何かしら相手に与えることができるのではないか。自分のできる範囲で、何らかの援助をしようとする気持ちが大事なのです。イエスさまはそのことを言っておられると思います。

 

 では、私たちは、どこまで助けてあげればいいのでしょうか。このサマリヤ人は「彼は気の毒に思い」(33)、その危険な場所に立ちどまって十分な介護をし、自分の家畜に乗せ宿屋に連れて行き、一泊看病もしました。その上、2デナリを与えて宿屋の費用も負担し、そして、足りなかったら自分が支払うと言いました。

 

 でも、仕事をやめてまでもそうしたのではなく、翌日は、仕事のために出かけて行きました。イエスさまがそこまで考えてお話しされたかどうかわかりませんが、このたとえ話を学びながら、助けを受けた人が自立できる方向にできる限り努力するサマリヤ人のようにさせていただきたいと思います。また、自ら与えられている仕事を果たしつつ愛のわざに励みたいと思います。そこに犠牲が伴いますが惜しみなく愛のわざに励みたいと思います。

 

 日野原重明先生が最近、"「いのちの」使命"という本を出されました。その中で次のように書いておられます。

 

 「……人に仕える姿勢も父から学びました。神戸の教会時代からの古い知人がいますが、最近、体調が悪いということを聞いたので、今日はどうしても時間がとれないから、明日の夜、彼女の家に往診をして手を握ってあげたいと思っています。忙しいけれど、患者さんの家を訪問してお世話をしたいのです。また、親しい人が急病だと聞けば、夜中でも自宅からタクシーを飛ばして入院に付き添ったりもします。時々、夜中に電話がかかってくることがあります。たとえば1時に寝て電話がかかってきたのが3時だったりします。正直言うと眠いです。でも、そういう緊急の電話は寝たままで受話器を取らないで、必ず起き上がって『はい』と高い声にして聞くのです。返事も、ぼそ、ぼそっと言いません。『こんな時間に電話かけてすみません』と相手が言っても、『いやいや、なに、先ほどまで原稿を書いていたんです』と言って相手を安心させます。そういう行動、これはやはり父が牧師として努力している姿を見て育ったからだと思うのです」。

 先生の生き方の中に隣人愛の姿をみます。

 世界には、悩み傷ついている人たちがたくさんいます。日本の自殺者は年間3万人以上です。10年でこの郡山の町が一つなくなる勘定です。その10倍は自殺願望予備軍です。その人たちに無関心でいてはならないと思います。

 

 皆さんが自分の豊かさ、幸せだけを求めるのではなく、与えることによって豊かにされることを願っています。そのために、無関心でいるのではなく、悩み傷ついている人たちに関心をもって進むべきです。そうすれば、砂漠が森になることを信じます。そのために犠牲を覚悟して惜しむことなく、私たちしかできない「小さい愛の種を蒔く」者となるべきだと、この良いサマリヤ人のたとえから教えられます。