『あなたの荷を主にゆだねよ』詩篇55篇1~11節、16~22節

 この3月25日(日)の午後、3月9日(金)に神学校を卒業された後輩の伝道師夫妻と二人のお子様を加えて4人の壮行会が行われました。その中でお二人のお礼と感謝のお言葉と共に、神学校での4年間の恵みのお証をしてくださいました。お二人にとっては経済的な必要、子育て、住まいのこと、子育てしながらの学びの苦労等さまざまな重荷を負いながらの神学校での4年間でした。そのような状況の中で神さまにありのままをお祈りし、みことばの約束を信じて、神さまを信頼し、ゆだねていく中で、その重荷が重荷でなくなり、手品のようなお話しですが、支えられて来た体験談をお聞きました。

 その時、今でこそ家族持ちで献身し、神学校で学ぶことは珍しくありませんが、私たちの時代は皆無で、家族持ちの献身者は私たちの学年が初めでした。お二人のお証を聞きながら同じような経験をしたことを思い起こしました。重荷を神さまのみ前で申し上げて、みことばの約束に立ってゆだねてゆく時、重荷が重荷でなくなりました。むしろ生きておられる神さまのみわざを経験したことを思い起こさせられて、神さまの恵みを新たに更新させられるときとなりました。

 

 私が、この詩篇55篇から示されているメッセージは、私たちが「重荷を負うとき」それを神からの贈り物、プレゼントとして受け取ることです。そして、祈り、神を信頼してゆだねることによってささえられつつ生きることができるのです。そこに生きておられる神を信じている信仰者の姿があるということです。そこで22節のみことば、「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」を中心に「あなたの荷を主にゆだねよ」と題してメッセージいたします。

 

 第一 苦しみと悲しみ

 

 この詩篇を歌っている人物についてはいろいろな説がありますが、私はダビデだと思います。ダビデはかつて何の落ち度もありませんでした。ところが、サウロ王は自分よりもダビデをイスラエルの民が賞賛するのを嫉妬し(やきもちを焼いて)、ダビデは王から命を狙われました。そのため、ダビデは死と隣り合わせの逃亡生活を送らなければならなかったのです。さらに、ダビデが王となりようやく王権も国も落ち着いて来たとき、息子アブサロムが反乱を起こしてエルサレムから逃げざるを得なりました。その時、自分の顧問であったアヒトペルがアブサロムに味方して、ダビデを裏切るのです。そのため、ダビデとアヒトペルの関係は冷たくなり、ダビデは相談する相手も失ってしまったのです。

 

 そのことが12節から14節で語られています。13節をお読みします。「しかしそれはあなたです。わたしと同じ者、わたしの同僚、わたしの親しい友です」。以前は一緒に神の宮で礼拝し、共に語り、働き、苦楽を共にした、その友であるアヒトペルが敵となって裏切ったのです。しかも、サムエル記下16章に記されていますが、「そのころアヒトペルが授ける計りごとは人が神のみ告げを伺うようであった」(23)。「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった」(4 新改訳)と記されています。

 

 王であるダビデが語ることばは軽く見られ、否定され、ダビデの顧問であるアヒトペルの語る言葉を周りの人は信じたのです。つまり、ダビデの王位が否定され、民の協力を得て国を建設するという事業が、協力を得られないため支障が生じたのです。 

 このようなことは、人間が集まるところではどこでも起こることなのです。そのときのダビデの絶望的な気持ちが2節から5節で述べられています。「わたしは悩みによって弱りはて」(2)、「敵の声と、悪しき者のしえたげとによって気が狂いそうです」(3)、「わたしの心がわがうちにもだえ苦しみ、死の恐れがわたしの上に落ちました」(4)と叫んでいます。

 

 そういう苦しみに耐えられなくなると、人間はだれしも思うことは、そこから逃れるということです。たとい荒野でもよい、とにかく逃れたいと思うものです。ダビデは6節から8節でこう言っています。「どうか、はとのように翼をもちたいものだ。そうすればわたしは飛び去って安きを得るであろう。わたしは遠くのがれ去って、野に宿ろう。わたしは急ぎ避難して、はやてとあらしをのがれよう」。

 

 私はこの箇所を読みますと苦笑させられます。それは私が常日頃「この問題から逃げ出そうとせず、しっかりと向き合うように」と自分を叱咤激励してきたからです。しかし、私よりはるかに勇敢なダビデですら、逃げ出したいような気持になっている様子に慰めが与えられます。

 

 ある神学校を卒業して間もない牧師が先輩の牧師に電話しました。「逃げ出したいと」すると先輩の牧師が「運命は冷たいけれども、摂理は暖かいものですよ。今、あなたがそこにいるということは運命ではない、神様のお計らいです」と言われたのです。それで、後輩の牧師ははっと気づかされて、いつしか感謝に変わったということです。

 

 しかもその上で、逃げ場のない自分の現実を描いています。それが9節から11節です。人によっては、現在の職場がそのような環境かもしれません。逃げ出したくても、生活のために逃げられません。あるいは家庭がそうかもしれません、最も近いはずの人が最も恐ろしい敵となるのです。たとえば家庭で精神的な虐待を受けるなら、どこに逃げ場があるでしょう。彼らは自分の悪意を巧妙に隠しながら、「なめらか」で「油よりもやわらか」「優しい」言葉を用いて語りかけ、「私はあなたのためを思って……」となど言いながら、実際には「そのままのあなたには生きている資格がない」「そのように言う資格がない」という隠れたメッセージを伝え、生きる気力を奪い取っていくということがあります。

 

 ところで、ダビデはなんと、「荒野」を「私の隠れ場」と言っています。それは人の目からは、誰の保護も受けられない、孤独で不毛な場所でしょうが、だからこそ「神だけが頼り」となります。つまり、彼はそのような状況で、四面楚歌の中で、天を仰ぎ、神に目を向けているのです。私は神学校を卒業して最初に信州の教会に遣わされました。その時、母教会の牧師が主菅牧師になってくださいました。その最初の頃、どうしようもないことが起こる時がある。その時は祈るのみであると言われたことが私の伝道者生涯に生きています。

 

 今日のベラカの聖書の箇所はマルコによる福音書11章でした。いちじくの木の葉が枯れているのをイエスさまに問いただしたのに対して、主は「神を信じなさい」と言われました。ダビデは神と一対一になり、神だけを頼りにして心を注いで祈り続けたのです。

 

 第二 あなたの荷を主にゆだねる

 

 ダビデは「わたしの願いを避けて身を隠さないでください」(1b)と思える中で諦めることなくじっと祈り続けることを通して、自分の訴えの声が神に届いていることを体験することができました。それは頭の理解ではなく、腹の底からの確信となりました。そこでダビデは「しかしわたしが神に呼ばわれば、主はわたしを救われます」(16)と歌っています。四面楚歌の中で祈って生ける神を経験したのです。

 

 これは「密室の祈り」を通して、神と一対一で向き合えるときに体験できることかも知れません。生ける神を経験するためには祈りが聞かれ答えられたということを経験することが大切です。

 

 ある牧師が聖会で語られてことです。卒業して数年の後輩の牧師に「先生は祈りを聞かれた経験をお持ちですか」と尋ねられたのです。すると後輩の牧師が「ありません」と答えました。すると先輩の牧師が「一からやり直しだ!」と語気を荒げられたのです。

 

 そのような個人的な経験をしたダビデは「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」(22)と他の人への勧めをなしています。これは、神の沈黙に悩んでいたダビデが、「私の祈りが答えられた!」という実際の経験を経た上で、神への信頼を訴えているのです。

 

 「ゆだねる」の本来の意味は「放り投げる」ことです。ですから自分の思い煩いや恐怖感を、そのまま全宇宙の支配者である神のみ前に差し出すことです。私たちは、「あなたのみこころのままに……」と祈る前に、自分のありのままを正直に神に申し上げることではないでしょうか。イエスさまはゲツセマネの祈りで、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)と祈られたようにです。

 

 それにしても、「主はあなたをささえられる。」「主は、あなたのことを心配してくださる」(新改訳)とはなんと優しい、心が安らぐことばでしょう。「あなたをささえる」とは、神の救いは、あなたの重荷を取り去ることではなく、重荷や思い煩いを抱えたままあなたを支えることなのです。しかも、主の目に「正しい人」とは、十字架によって救われ義とされた人であり、主に向かって叫び続ける者です。どうして主に向かって叫び続けることができるのでしょうか。それは、私たちの主イエスが死の力に打ち勝つことで、人生の途中に何が起ろうとも最終的な勝利が保証されていることを証ししてくださっているからです。

 

 あるクリスチャンの兄弟が務めている会社の支店長が海外に約1週間出張しました。職場の同僚はクリスチャンのことをよく思っていませんでした。というのは支店長がクリスチャンの兄弟を信頼していたことと仕事量がクリスチャンよりも多いと不公平に感じていたからです。そこで支店長が出張している間に職場の同僚が一緒になってクリスチャンの兄弟に多くの仕事をさせたのです。

 

 そのため、兄弟は自分の本来の仕事が十分に出来ませんでした。支店長が帰国後そのことを尋ねますと兄弟は他の人を悪く言うのは良くないと思い、「十分できなかったのは自分の努力が足りなかったからです」と答えたのです。すると支店長は「君は怠惰な人間だ。いつやめてもいいから、自宅待機するように」と言われたのです。兄弟は牧師にも事情を話し祈ってもらうと同時に、自分でも必死になって祈りました。

 

 やめたくない会社でしたが、不思議なように平安のうちに支えられたのです。数日すると支店長から電話があり、「なぜ出社しないのか。もう一度話したい」と言われ、今度は事実を話しました。支店長は詫びてくれたのです。同時に、仕事の配分について改善する機会になったのです。

 

 人間にとって大事なことは、苦しい所から荒野へ逃避行することではなくて、その重荷をそこで主にゆだねることです。そのとき主は、その重荷をささえてくださるのです。重荷にひしがれ、のがれようとしてものがれられず、ただもだえ苦しんでいた私が、その重荷を負ったままで、力強く歩む者に変えられるのです。神さまがささえてくださっていることを覚えるとき、重荷が重荷でなくなってしまうのです。

 

 「重荷を負うとき」、これは神からの賜物、プレゼントと受け止めることです。そして、「あなたの荷をゆだねよ」と呼びかけておられる神に、「わたしはあなたに寄り頼みます」と神を信じてゆだねて歩む信仰者となりましょう。その時、神は約束しておられます。

 

 「主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない」(22)。