『百卒長の信仰』マタイ第8章5〜13節

この朝開かれているマタイによる福音書8章1節から17節には3つの病のいやしが記されています。その2つ目は百卒長の僕のいやしです。その中心的なメッセージは百卒長の僕のいやしではなく、「百卒長の信仰」です。

 私がまだ20歳を少し過ぎた頃、洗礼を授けて下さった、牧師に「信仰の意味がわかりません」とお尋ねしたことがありました。すると先生が「信仰とは主を仰ぐことである」と教えてくださいました。その数年後、小島伊助先生が「信仰には信じる対象があり、その対象はイエス・キリストである」と教えられました。

 

 信じるということは、対象となるお方を信頼することです。聖書のみことばを信じるといいますが、その背後におられるお方、みことばをくださったお方である神さま、イエスさまを信じることなのです。つまり信仰とは、神さまと人との人格的な交わりです。私たちはその神さまとの交わりを深めさせていただきながら日々あゆませていただいている者です。

 

 皆さんには、何でもお任せすることのできる人がまわりにおいでになるかと思います。それが信頼ということでしょう。しかし、信頼しているといいながら、少し心配になることはありませんか。神さまは徹底して信頼できるお方、神さまを徹底して信頼して間違いがないことを、この百卒長の信仰から学ぶことができます。今日はそのことを3つの点から学びます。

 

 第一 百卒長の謙遜

 

 百卒長の信仰の特色は謙遜にありました。この「百卒長の僕が中風でひどく苦しんで、家で寝ていました」。「僕」ですが、家族同然のような関係にあったようであります。ルカによる福音書7章にも同じ出来事が記されています。そこでは、ユダヤ人の長老たちをイエスさまのところに先に遣わしたように記されています。しかし、マタイはそれを省略しています。百卒長はユダヤ人の長老を左記に遣わした後に、イエスさまが自分の所にきてくださるというので出かけて行って「僕」の病をいやしてくださるようにお願いしたのです。

 

 先に長老を遣わしたのは、百卒長はヘロデの兵隊であり、異邦人でしたから、自分が行くのをためらったのでしょう。そこで、長老たちに頼んでイエスさまに来ていただくようにお願いしてもらったのです。その時、長老たちは百卒長のことをとてもほめたのです。異国の地にあって支配者側にある者が支配されている者よりほめられるということは大変なことです。彼は神を敬う人であり、ユダヤ人を愛し、私財をささげてユダヤ教の会堂を建ててくれたと。しかし、彼はそのような人々の評価にもなんら誇ることもうぬぼれることもありませんでした。百卒長はそのような功績や評判のゆえに「僕」がいやしていただけるとは思っていなかったのです。

 

 神さまの恵みに与るために必要な秘訣は謙遜です。ヤコブの手紙の4章に「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」(4:6)とあります。このみことばはペテロもその手紙で引用していて、ヤコブとペテロという二人の弟子たちが、イエスさまの謙遜に深く心を向けていたことがわかります。

 

 信仰の歩みにおいて一番むつかしいことはこの謙遜になるということではないでしょうか。言うまでもなく、この謙遜であることの反対は高ぶりです。興味深いことに聖書のことばではこの高ぶり、高慢という語は「上に、現れる」という意味です。何が何でもいつも自分が上に現れていなければ承服できない心、それが高ぶり、傲慢ということではないでしょうか。これに対して謙遜とは、神に「服従する」(ヤコブ4:7)心で、それは「下に、置く」という意味を持っています。常に自分を神の下に置く生き方のことです。つまり傲慢、高ぶりとは神の上に自分が現れ出ていくことであり、謙遜、へりくだるとは神の下に自分を置く人のことです。

 

 これは決して抽象的、観念的に頭で理解して、ああ分かりました、ということではなく、身をもって、具体的に一つ一つの出来事を通して、自分のうちにある高ぶり、傲慢さにまず気付かされ、それをイエス・キリストの十字架に明け渡し、その恵みによって神の前にも、人の前にも謙遜な自分に変えられていく、そういう営みです。

 

 第二 愛に対する信頼

 

 さらに、この百卒長は、イエス・キリストの愛に対する信頼を強くもっていました。

 百卒長はイエスさまに僕をなおしてくださるようにお願いしました。それに対してイエスは「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われました。すると「主よ、わたしの屋根に下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません」(8)と辞退するのです。それは、当時のユダヤ人は異邦人を汚れた者と見なして、その「屋根の下」すなわち住まいに入いるだけで汚れると考えていたからです。それだけではありません。ユダヤ人は異邦人と食事も一緒にしませんでした。

 

 神谷美恵子さんは精神科の医者であり、岡山県の長島愛生園で重い皮膚病の方々のために治療し、尽くしたことでよくしられている方です。父親は、前田多門といい、新渡戸稲造の感化を受けた熱心なクリスチャンで、母親は、内面の生活を大事にするクウェーカ教徒で、美恵子さんも若い時から、両親のよって信仰に深い感化を受けていました。19歳のころ、重い皮膚病の方々を訪問し、非常に心を打たれたことから、医師として奉仕したいと願いますが、その時は家族の反対でいったん断念しました。

 

 しかし後年、精神科の医者として、岡山県の長島愛生園で重い皮膚病の方々のために治療し、尽くしました。その神谷美恵子さまの詩に「なぜ、私たちでなくて、あなたが? あなたは代わってくださったのだ。人としてあらゆるものを奪われ、地獄の責め苦を悩みぬいてくださったのだ」とあります。これはイエスさまの十字架の身代わりの死、あがないのことを歌っているのです。

 

 イエス・キリストは十字上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。小島伊助先生は「神から声があった。それは『おまえは捨てられる資格があるからだ』」と、言われました。罪なきお方、無罪なるお方であるからこそ、罪の身代わりとなって死んでくださり、あがないを完成してくださった。捨てられることのない神の子のイエス・キリストが捨てられてくださり、捨てられて当然の私たちが捨てられずに救われたのです。それゆえに、罪にまみれた、汚れ切った私が救われたのです。

 

 ある姉妹は若い時に糖尿病になり、片目を失明され、毎日インシュリンを打ちながらの生活です。「ご不便ですね」と言いますと、「いいえ、私は強情な人間ですから、このような病気にならなければ、罪を認めず、イエスさまを救い主と信じなかったのです。救われたことほど幸いなことはありません」と喜びに溢れた生活をしておられます。

 

 イエスさまはそのようなお方です。そのイエスさまの愛に対して、この百卒長は信頼をおいたのです。異邦人として汚れた者であり、イエスさまにいやしていただく資格のない者であるが、イエスさまなら愛のゆえに受け入れてくださり、お願いすればいやしてくださるとの信仰に立ったのです。

 

 第三 みことばに対する信仰

 

 そこで百卒長は「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」とイエスさまにおことばを求めたのです。百卒長はイエスさまのことを二度「主よ」(6、8)と呼んでいます。これは通常の敬意以上の気持ちを込められた表現です。すなわち、イエスさまのことを、少なくとも、神さまから特別な権威を授けられた人と見なしていたということです。「権威」とは自発的に同意や服従を促すような能力や関係のことです。これは、相手の同意に関係なく、脅しや罰則などによってむりやり服従させる「権力」とは別物です。イエスさまの権威とはそのようなものでした。

 

 百卒長は、自分自身の生活、すなわち軍隊生活の中で、軍人は上官の命令に従わなければならないことをよく知っていました。彼は上官としての権威をもっていたので、部下に命令すればその通りになりました。それと同じように、イエスさまが命じれば僕はなおると信じていたのです。それで、「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」とお願いしたのです。最初に言いましたが、聖書のみことばを信じるといいますが、その背後におられるお方、みことばをくださったお方である神さま、イエスさまを信じることなのです。

 

 イエスさまは百卒長の信仰に対して「非常に感心され」ました。10節をご覧ください。「イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、『よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない』」。不動の信仰とは不動の真理のみことばへの信頼であり、それはそのみことばの背後にあるお方を信頼することです。もし、救われているのに、確信がない方がおられるなら、みことばを信じることです。聖書のみことばをしっかりもつことです。私たちクリスチャンにも、不安になったり、失望したり、うまくいかなったりすることが起ってきます。そのようなときに、どうしたらよいでしょうか。もう一度みことばによって信仰を確立させていただくことです。

 

 私の母教会で私が神学生の4年生の時、5階建ての会堂が献堂されたことがあります。建築工事が始まり、基礎が出来た頃、銀行が融資できないと言って断られたのです。その時、牧師が 「憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です。」(ネヘミヤ8:10)とのみことばが与えられ、皆んなで必死に祈りました。すると、建築業者が私の会社が銀行からお金を借り、皆さんは私の会社に月々返済してくださいと言ってくださって、会堂が建ったのです。その時、牧師が私に伝道者として生涯、ご奉仕するのに大きな信仰の経験として役立つと言われました。その通りでした。何度、この時の神さまのなさったことと救いの恵みを思い起こしてみことばを信じる信仰に立ってきたかわかりません。

 

 「それから百卒長にイエスは『行け、あなたの信じたとおりになるように』(13)と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた」のです。百卒長がイエスの言葉を信じた時、僕はいやされたのです。日常生活のどんなことにおいても、イエスさまは信頼に足るお方です。私たちは単なる理解や承諾程度にとどまらないで、また頭や観念の信仰ではなく、謙遜になり、イエスさまの愛にすがり、権威あるみことばを信じる信仰に生きる者となりましょう。