『くつを脱ぎなさい』出エジプト記・第3章1~12節

 私は神学校を卒業して35年目を迎えています。13年前にこの教会に遣わされる時が4回目の転任でした。その35年の間、様々なことがありましたが、伝道者は伝道者として神さまのお取り扱いと訓練を受けますが、転任の時は信仰の真価が問われます。その度に、モーセが神さまの前にくつを脱いだ経験をしたようにくつを脱ぐ経験をしてまいりました。

 しかし、そのような大きな出来事だけでなく、小さなことにもくつを脱ぐことが伝道者の生き方です。つまり祈りの中で示されたことは、小さいことであってもみ心なら受け入れ、従い、信仰に立って歩むということです。

 

 神さまは私のような伝道者だけでなく、すべてのクリスチャンがくつを脱ぐ信仰に生きることを願っておられます。そして、成長して、主がお救いくださったご目的のために生き、神の栄光を現わすことを望んでおられます。

 

 世にはいろいろな幸いがあるでしょうが、イエス・キリストによって救われることほど幸いなことはありません。どんな犠牲を払っても私たちはイエスさまのこの救いというものを他のものに代えることはできません。なぜなら、私たちは空疎な生活から救われたからです。

 

 ペテロ第一の手紙1章18節、19節に「あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」とあります。

 

 「空疎」ということばは、価値がない生き方、有益でない生き方という意味です。つまり、いくら努力しても最後に報われない生き方ということです。クリスチャンでない人々が一生懸命努力します。その結果、それらの努力が一応この地上では価値があり、報われるように見えます。表彰されて人々の話題となり、賞賛されるかもしれません。

 

 しかし、結局は報われないということです。つまり、神さまに覚えられることはないというのが空疎という意味です。しかし、クリスチャンが同じようなことをしていても、そのことが神さまに数えられ報われるということです。

 

 では、クリスチャンは物事がすべてうまく生き、順調であることが価値があることであり、不幸で、いろいろ問題があれば価値がないというように考えるのでしょうか。

 

 そうではありません。クリスチャンであってもクリスチャンでなくても同じような生活をしているように見えます。実際にクリスチャンでない人の方がお金持ちであるかもしれないし、人々から認められるかもしれないのです。あるいは豊かさを味わっているかもしれません。健康であるかもしれません。家族も円満でそちらのほうが本当に素晴らしい家庭のように見えるかもしれないのです。

 

 しかし、それでもクリスチャンはクリスチャンでない人よりもはるかに幸せを感じ、神に報われる有益な生涯だと確信しているのです。私たちはイエス・キリストの尊い血によってこのような救いに入れられたのです。

 

 19節にある「尊い」とは「空しい」のちょうど正反対のことばで、価値ある、高価、尊敬を受けるという意味です。では、なぜ「尊い」のでしょうか。それは、十字架は神の愛の現われであるからです。また、恐ろしい罪のために神の子の血が流されたからです。そして、完全に贖う犠牲であるからです。しかし、私たちはこの驚くべき救いの恵みが薄れ、マンネリ化した生活になってしまう危険があるのです。そのために、くつを脱ぐ経験と信仰生活が必要です。

 

 モーセはエジプトから逃げてミデアンの地で40年間生活しました。彼は羊飼いをしていましたがある日、神の山と言われるホレブに来たのです。ところが「しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった」(2)のです。そこで彼は不思議に思い「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」(3)と近づいたのです。すると神はモーセに声をかけられました。「モーセよ、モーセよ」。彼は「ここにいます」と言いました。すると「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」(5)と言われたのです。

 

 「足からくつを脱ぎなさい」。くつを脱ぐということには、どういう意味があるのでしょうか。くつを脱ぐこということは、権利の譲渡を意味します。ルツ記に出てまいりますが、ボアズはルツの求めに応えて結婚しようと思いました。ところがユダヤの法律ではボアズよりもルツと結婚する権利のある親戚があったのです。そこで、まず、その親戚の人の気持ちを確かめることになりました。当時自分の権利を他人に譲渡する時にはくつを脱ぐことになっていたのです。その親戚の者は、町の長老たちの前で靴を脱ぎ、ボアズに結婚の権利を譲渡したのです。

 

 ですから、くつを脱ぐとは、神さまに自らの権利を譲渡することです。私の学んだ神学校の初代校長の沢村五郎先生は、「この世の教育は、人を偉大にする。また、高ぶらせる。しかし、神の教育は人をむなしくさせる」と語ってくださいました。モーセはミデアンの地での羊飼いとして40年間を通して、忍耐や謙遜を学びましたが、何より人の無力を学び、創造主であり主権者である神に絶対信頼することの必要を学んだのだと思います。

 

 何度もお話ししていますが、私たちは自動車という人生を救われる前は自分がハンドルを握って運転していたのです。ところがイエス・キリストによって救われて、イエスさまが一緒に乗ってくださるようになったのです。そのイエスさまが、「この道を行きなさい、こちらに曲がりなさい」と言われても無視して運転していました。やがで、イエスさまがハンドルを握って運転してくださることが最も安全で、最善であるあることを知って、イエスさまに運転していただくようになることが、くつを脱ぐことなのです。

 

 つまり、神のみ心を知り、信頼して、神に権利を譲渡してくつを脱ぐことです。それは、自分を信頼するのではなくイエスさまへの絶対信頼なのです。自己不信頼からくる神への絶対信頼です。そこに聖霊さまは臨んでくださるのです。そこからご聖霊に支配された歩みが始まるです。そこから神への信頼、信仰の歩みがあるのです。

 

 ある人が夢を見ました。ある日イエスさまが訪ねて来られたのです。イエスさまが鍵をお求めになりお渡しするとお入りになりました。ところがしばらくすると去って行かれたのです。それはイエスさまに入っていただいては困る部屋があって、入ることができなかったためです。あわててイエスさまを追いかけたのですがお姿が見えなくなりました。

 

 「イエスさまに入っていただいては困る部屋」とは何のことでしょうか。それは、その人その人で違うでしょう。持ち物、金銭、立場、地位、趣味、妻、子ども、病、試練、計画等々あるでしょう。私たちが条件をつけないで、すべてはイエスさまのものですと、靴を脱いで権利を譲渡し、全く明け渡す時、イエスさまは来てくださるのです。しかし、条件をつけますとイエスさまは去られるのです。イエスさまのみ心は完全です。イエスさまのみ心は最善で、結局喜ぶべきことです。

 

 私たちは自己本位か神本位か問わなければなりません。別の言い方をすれば、信仰の中心が私自身であって神さまでなかったりするわけです。私が信じた神ご自身より神を信じた私自身が焦点にあり、主役であったりするわけです。その結果がうまく行った時は自己満足となり、うまくいかなかったときにみじめさや劣等感を味わうことになります。

 

 私たちは朝に晩に短く、また長く祈ります。いずれにしても、「今日一日お守りください」とか「今日一日お守りくださってありがとうございました」祈るのは忘れないでしょう。主のみ手の支えなしには生きられないという自覚は、クリススチャンの信仰の基本にあると思います。

 

 でも改めて考えます。「お守りください」という祈りを通して私たちは具体的に何を求めているのでしょう。「あなたの御名のためにふさわしく生きることができるように罪から守ってください」という求めは筋が通っています。一日の初めに、「その日のために与えられている、なすべきことのためにお守りください」と祈るのも正しいでしょう。いや、特別な事情や背景がなくても「主よ、あなたが共にいてくださることを忘れないようにお守りください」と祈るのもすばらしいでしょう。

 

 しかし、「一日お守りください」と祈りながら、その一日自分勝手なことをしていて、主のご存在に思いを向けようともしないというような生き方になっていないか吟味しなければなりません。つまり、私たちは日々、神のみ心が何であるかを知り、それが自分の願っていること、計画していること、行動しようとしていることと違っても、主に主権を明け渡し、すなわちくつを脱いで、信頼してみ心に生きることです。

 

 私たちクリスチャンの生きることの主な目的は、神の栄光を現すためです。先日のライフ・ラインのつどいで、岩井基雄先生がご自分のお父さんのお話しをなさいました。よく病院を訪問されたそうです。そして、「病気になったのは特別な神さまのご愛のみ旨の中にあることで、神さまの恵みにあずかるまで病気がなおらないように」と祈られたということです。

 

 私たちの主は御利益の神ではありません。ですから病気をしたときでも、神さまのみこころがなりますようにと、主権を明け渡して、つまりくつを脱いで主に信頼し、主のなさる恵みを待ち望むことです。

 

 ある教会に盲人の兄弟がいました。同じ教会にいる晴眼者の姉妹と結婚したくて牧師に申し出ました。牧師はうまくいくだろうかと躊躇されたのですが、祈りのうちに話されました。するとその姉妹は「私を馬鹿にしている」と怒りました。その姉妹は毎日早天祈祷会に出席していましたが、ある時、神さまが語りかけられました。「兄弟があなたを必要としているとしたらどうするか」。そこで姉妹は「私は兄弟に対して全く愛がありません。しかし、み心なら、私が兄弟を愛せるように、私の心を変えてください」と祈られました。

 

 姉妹は主に信頼をして権利を譲渡したのです。つまりくつを脱いだのです。そんなお祈りをささげてしばらく経ったある日、不思議なことにその姉妹の心が変えられ、盲人の兄弟を愛する愛に心が満たされたのです。そして、「兄弟を心から愛しています」と言って神さまと周囲の人たちに祝福されて結婚されました。

 

 その盲人の兄弟を愛する姿は教会に良い大きな感化を与えまして、神の栄光となったのです。

 

 私たちは、明日への備えをしたり、将来の計画を立てたり、準備することが悪いということではありません。しかし、今日一日を生かされていることの重みを飛び越えて、どれほど明日に備え、将来の計画を立ててもそれは空しいのです。

 

 だからこそ、今日この一日はかけがいのない、尊く重い、値千金であるということを覚えて生きることです。そのために、謙虚な思いで祈り、神のみ心を知り、主のみ心に生きることです。神のみ心ならば、主に主権を譲渡する、くつを脱ぐ、すなわち明け渡して従い、神の栄光のために生きることです。そこにこそクリスチャンの生きる目的と有益な生涯があるのです。