『シャロンの野花』雅歌第2章1~2節

 きょうは「花の日」礼拝です。礼拝後に皆さんがお献げくださったお花を持って、日頃のお世話になっている公共の施設に出かけて感謝し、ご病気の方々の慰めと励まし、また、伝道の機会ともしたいと思います。

 そこで花に関係する聖書の箇所はと祈りのうちに示されたのが雅歌です。この雅歌では何が語られているかと言いますと、神と神に選ばれた民との関係が語られているのです。

 聖書では、この関係を他のものにたとえて「夫と妻」のような関係であると言っています。つまり、神はイスラエルの民をめとり、妻として迎え、連れ添いとしてくださったのです。

 

 そして、新約ではこの関係が発展してキリストと教会の関係で表現されているのです。たとえばエペソ人への手紙5章23節に「キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられる」とある通りです。

 

 そこで、第一にキリストと教会との関係、第二にゆりの花であるクリスチャンについてみことばから学びます。

 

 第一 キリストと教会との関係

 

 1節に「わたしはシャロンのばら、谷のゆりです」と言われています。これはキリストご自身のことを言っていると解するのが適当ではないかと思います。しかし、この朝特別に学びたいのは2節であります。「おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ」と。この短いことばからキリストと教会との関係について考えることができます。

 

 「おとめたち」とはこの世の人たちのことです。「わが愛する者」とは教会のことです。神さまのひとり子であるイエス・キリストを通してペンテコステの日に教会は誕生しました。日本語で「教会」ということばはギリシャ語では「エクレシヤ」と言います。

 

 それは“召し集められた者”という意味です。では召したのはだれかと言いますと神ご自身です。そして召されたものは人間です。この世の人間の中から、神さまに召されて、集められ、一つにまとめられた群れです。では、どういう者を召し集められたかと言いますと、えこひいきして、神さまが勝手に好きな者をお呼びになったのかと言うとそうではありません。それには条件があるのです。

 

 自分が罪人であることを知り、悔い改め、神がこの世に遣わしてくださったイエス・キリストは、私の罪の身代わりとなってくださったと、信じ頼った者が、召し集められ、一つ群れとなっているのです。それで、神の教会であるのに、キリスト教会と言われるのです。

 

 その教会はイエスさまにとっては「わが愛する者」なのです。ですから教会はキリストの愛の目標であり、愛の対象なのです。エペソ人への手紙5章25節に「……キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、……」と言われています。十字架上で命をささげ、犠牲となってくださったのは、何のためであるかというならば、教会のため、教会を愛してと書いてあります。イエスさまの十字架を通して私たちはイエスさまがいかに教会を愛しておられるかを知るのです。

 

 もちろんキリストは全人類を愛しておられ、すべての人の罪を負って贖いとなって十字架におかかりになったのです。しかし、エペソ人への手紙においては、キリストと教会とは、花婿と花嫁の関係を表わしています。そして、命を捨てるほどに教会を愛し、一人びとりを愛してくださっているのです。

 

 エペソ人への手紙5章24節、25節に「そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。」とあります。私たちが人を信頼し、尊敬し、愛するということは決して杓子定規、原則通りばかりはいかないかもしれません。

 

 けれども、キリストが教会を愛し、一人びとりを愛して下さったその愛を教会を通して受けることによって、私たちも他者に対して、妻に対して、そうすることができるようになるということは素晴らしいことです。ですから私たちが愛し合っていることが、伝道の最も大切な証しとなるのです。

 

 イエスさまは「それによって、まだイエスさまを信じていない人が信じるようになる。また、神さまがご自分が救われた民をどんなに愛しているかわかるようになる」と言われたのです(ヨハネ17:21、23)。

 

 「愛は愛されることをもって満足する」ということばがあります。ある人がもし誰かを愛したならば、その愛した人は愛され返すまで満足がないのです。私たちが誰かを愛した時、その愛した人から求めるものは何でしょうか。お金ではない、愛した人から求めるものは愛され返すことです。

 

 イエスさまはご自身をすべて差し出すほどに私たちを愛してくださったのです。もしそうであるならば、私たちのとるべき態度はなんでしょうか。このイエスさまの愛に応答してゆくことです。私たちのほうからも「イエスさまあなたを愛します。何ものよりも愛します」との姿勢が大切です。

 

 そして、十字架の愛を受けた者として、イエスさまを愛するのですが、それはそのからだなる教会を愛することでもあるのです。時間でもお金でも才能でもイエスさまのため教会のため愛に応答して使って行きたいと思います。

 

 第二 ゆりの花であるクリスチャン

 

 「おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ」と言われています。ここで「愛する者」すなわちイエスさまによって救われたクリスチャンがこの地上、世の中にあるのは「いばらの中にゆりの花があるようだ」と言っています。「いばら」は、要するに神を知らない人々、神に頼らないで生きている人々のことです。そのような世界で「ゆりの花」のようであるというのです。

 

 イエスさまはマタイによる福音書6章28節〜30節でこう言われました。「また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花(野のゆり…新改訳)がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ」。

 

 すなわち、第一に花は、私たちに造り主があることを教えてくれます。

 この花は、私たちに造り主である神さまがおられることを教えてくれます。花は自然に生えたのではありません。これには造り主があるのです。その花が教えてくれている創造主なる神のもとに帰る時、私たちは初めて人生の目的や意義が分かるのです。それだけでなく、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」(コリントへの第二の手紙5章17節)とあります。その時、心も価値観も生活も人生も永遠も全く新しくされるのです。

 

 日本の生んだ“聖者”として広く世界に敬愛された方に賀川豊彦先生がおいでになります。彼は妾の子で、幼くして両親を失い、兄まで放蕩で亡くしました。正妻である人の冷たい仕打ちの中で寂しく育ちました。15歳のとき、初めて宣教師を通して知ったキリストの父なる神の愛、その喜びのうちに芽生えた一縷の希望を抱いて、寄宿舎に帰るなり、その夜はふとんをかぶって、ひとことだけ、「神さま、いままで申し訳ありませんでした。これからよろしくお願いします」と、祈り方も知らぬまま、真剣に祈りました。

 

 それが彼にとっての魂の誕生でした。神さまはこのささやかな祈りを、たしかに聞きとどけてくださり、孤独と不安におびえる少年を、愛と献身に生きる人生の勇者と変えてくださったのです。

 

 私たちは、この朝、新たな思いでイエス・キリストによって救われ、新しくされたことを感謝しましょう。また、日々、イエスさまによって救われたことをこの上ない幸いであることを感謝し、神さまをもっともっと賛美し、造り主なる愛なる神さまがおられることを周りの人たちに生活を通して示して行く者とならせていただきましょう。

 

 第二に花は人を喜ばせるために造られたものです。

 花は、人を喜ばせるために造られたものです。神さまは、私たち人類を楽しませるために、花をお造りになったのです。テモテへの第一の手紙6章17節に、「この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように」とあります。

 

 もし、この世界に花がなければ、なんと殺風景なものでしょう。花のない世界などは、とうてい考えられません。花はみな、神が私たち人間を喜ばせ、楽しませるためにお造りになりました。神さまは花だけではありません。本来は私たち人間を楽しませるためにお造りになったのです。ですから人生は喜びの人生のはずなのです。

 

 では、なぜ世の中に苦しみがあり、涙の谷を通らなければならないのでしょうか。それには二つの意味があります。一つは罪があるからです。もう一つは神に信頼し、従って歩み、キリストに似た者に変えられて行くための神さまの訓練としてです。

 

 人間は、喜び・感謝・幸福の源である神様に、背中を向けて、背きました。私たち人間が、幸福の本源なる神さまから離れた結果、私たちの心に、様々な罪と汚れが生じ、災いがつきまとう結果になったのです。

 

 ところが、イエス・キリストによって救われた結果、私たちは心に喜びの花を咲かせる者とされたのです。パウロはピリピ人への手紙で16回も「喜びなさい、喜びなさい」と繰り返しています。それはパウロの心に喜びの花が咲いたからです。

 

 しかも、彼の境遇が最悪の時、ローマの獄屋で、明日にも首がとぶかという風前のともしびの時に、彼は、心に咲いた喜びの花をピリピの信者たちに移植しようと思って、ピリピの人に「喜びなさい。喜びなさい」と手紙を書いたのです。私たちも救われて心に喜びの花を咲かせる者とされました。この恵みをイエスさまに感謝しましょう。

 

 第三 花は、私たちに信頼の大切さを教えてくれます

 

 イエスさまは「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい」(マタイ6:28)と言われました。「考える」とは「よくわきまえる」ということばで、英欽定訳では「コンシダー(consider)、「よく考える」という意味のことばに使われています。ですから、私たちは、この花を見て「ここに花が咲いている」くらいに片づけてはいけないのです。花を見てよく考えたいと思います。

 

 花は信頼しています。野のゆりの花は、日を照らし、雨を降らせ、風を吹かせて下さる神のなされるままに、信頼して一切をゆだねています。自分の運命をただみ手に一任して何の不平も言いません。心ない人に踏みにじられるような場合があるかもしれません。そうかと思うと人里離れた深い山の奥でだれにも知られないうちに花を咲かせ、黙々と知らぬまに散っていく花もあります。彼らは不平を言いません。ただ運ばれるままに、育てられるままにおまかせしています。

 

 それに比べると人間は何と思いわずらいの多いことでしょうか。人間は思いわずらう存在かもしれません。その私たちに対して、イエスさまは「思いわずらうな」(マタイによる福音書6章31節)とおっしゃいました。いやな雨だと思われたり、どうしてこんな風が吹くのかと思われることもあるかもしれません。しかし、雨を降らせ風を吹かせるのも造り主であり喜びを与えてくださる神さまなのです。ですから一切の思いわずらいをやめましょう。神さまは信頼する者に対して、最善をなしてくださるのです。

 

 大切なことは境遇や環境ではなく、イエス・キリストによって救われ、どういう中にあっても、主の十字架の血によってきよめられた心、この命の性質が私たちの中に与えられていることです。そして、変わるこのとのないイエスさまに信頼して行くことです。