『神の約束を待つ』ルカ24章44節~49節

私が結婚のお世話をさせていただいた兄弟がいます。兄弟はS県に住んでいて姉妹はK市に住んでいました。姉妹の教会の牧師と私が親しくしていましたので、それぞれが兄弟姉妹にお話をし、二人が大阪駅で会うことになりました。ところが、姉妹はずいぶん待ったのですが、兄弟が来ません。それで、覚悟を決めて、あと5分で兄弟が来なければ、このお話は主のみ心ではないということで、ご破算にしようと決めたそうです。ところが兄弟が5分ぎりぎりに現れて、会うことができ、二人は結婚し、良きクリスチャンホームを築いています。このことを後に姉妹から聞き、約束を守ることがいかに大切であるかを教えられたことでした。

 イエス・キリストは復活され40日後、昇天される直前に大切なことをおっしゃいました。それが49節です。「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。ここに「父が約束された」とありますが、新改訳では「父の約束」とあります。聖書の中には、神さまが約束して下さったという「約束」が3万回あると言われています。ところが、その約束ということばの中で、この一つのことばだけに定冠詞がついて「この約束」となっています。ほかの箇所には定冠詞がなく、ただ「約束」なのです。ですから、この「約束」は、3万回の約束の中で最も大切なことばなのです。

 

 では、「この約束」は誰に向かって言われたのでしょうか。44節に「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分」と言われていますから、イエスさまの弟子たちに言われたのです。これは、まだイエス・キリストを救い主と信じていない、すなわち、救われていない世の中の一般の人々に向かって言われたことばではありません。イエスさまの弟子たちに向かって言われたことばです。彼らはイエスさまが召された時、一切を投げ捨てて、イエスさまに従いました。彼らの名前はすでに天に記されていました。彼らはこの世の者ではありませんし、確かに、イエス・キリストを個人的な救い主と信じていたのです。そのような弟子に対して「父が約束されたものを、あなたがたに贈る」と言われたのです。すなわち「上からの力」、すなわちそれは「聖霊の力」のことであり、それが、イエスさまが天に帰られた後の彼らにどうしても必要だったからです。

 

 では、イエスさまの救いにあずかり、イエスさまに従って、イエスさまのために奉仕をしていた弟子たちですが、どうして「聖霊の力」が必要だったのでしょうか。確かに人の目から見ると、信仰に立ち、忠実に、熱心にイエスさまに仕えている弟子たちに見えましたが、決してそうではありませんでした。彼らは霊的には未熟であり、成長することなく、肉的だったのです。

 

 彼らの中の二人はイエスさまが王国を建てられた時、自分たちが右大臣、左大臣になりたいという思いで心が一杯でした。目立つ立場につき、他の人からよく思われたという心がありました。神さまが弟子に求めておられることは目立つことではなく、人に褒められることでもありませんでした。謙遜であり、目立っても目立ったなくても主に仕えることでした。また、弟子たちがサマリヤ地方で伝道した時、サマリヤの人々が、弟子たちを快く迎えてくれませんでした。そのようなひどい仕打ちを受けた時、弟子たちは「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったのです。イエスさまは「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。伝道にはこのようなことはつきものです。それにもかかわらず、魂の救いのために祈ることもせず、愛と親切を示さなければならないのに、非常に短気で人を裁き冷たいことを言ったのです。

 

 弟子の中で中心的な存在であったペテロは、イエスさまが裁判にかけられ十字架につけられる時、弟子たちは皆主を捨てて逃げると言われました。するとペテロは他の者はいざ知らず、「私はあなたを知らないなどとは決して申しません」と断言したのです。ところがペテロはそう言った直後、「知らない」と3回も言ってイエスさまを捨てたのです。彼は裁判を受けておられるイエスさまの仲間だと見られることを恥じて、拒否したのです。それだけではありません。聖書は「ペテロは、遠く離れてついて行った」と書いています。愛しているなら遠く離れることなどできません。ですから、ペテロはイエスさまを愛していいなかったのです。敵というわけではありませんが、十字架の辱めを受けておられるイエスさまの側に付き添い、イエスさまと同じ辱めを受け、一緒について行けなかったのです。

 

 イエスさまが復活されたと町中がこのニュースでもちきりの日曜日に夜、弟子たちはイエスさまのことを伝えなければならないのに、自分たちも捕えられ、イエスさまと同じように十字架につけられることを恐れて、エルサレムのある二階座敷に行き、戸を閉め、鍵をかけて身を隠していたのです。しかし、そのような弱さと勇気とに欠け、イエスさまのために犠牲を払うことを避ける弟子たちに、ペンテコステの日に聖霊が下り、彼らは変えられて大胆に町へ出て行き、大胆にイエス・キリストのことを宣べ伝えることができたのです。彼らに必要なのは、聖霊の力でした。

 

 しかし、弟子だけではありません。私たちクリスチャンも聖霊の力が必要です。なぜなら、私たちは救われたクリスチャンでしょう。しかし、神さまは私たちが聖霊の力をいただいたクリスチャンであることを願っておられます。そしてペンテコステの恵みを経験した弟子たちのようなクリスチャンとして歩んでほしいと願っておられるのです。

 

 私の先輩の牧師が新しいオートバイを買いました。訪問を終わって、オートバイに乗って帰ろうとエンジンをかけたのですがかからないのです。途方に暮れていますと若者が側を通り、「おっさん。動かないのか。俺がみてやろう。」と言って、しばらく調べていたのです。それから先輩の牧師に言いました。「おっさん、ガソリンがないから動かんのや」と言ったのです。オートバイが新車でどんなに素晴らしい機能を備えていても、ガソリンがなければオートバイの働きはできないのです。私たちクリスチャンも救われただけでは、本当の意味で、神さまから託されている使命を果たすことができませんし、神さまの栄光を現わすことができないのです。

 

 パウロはそのために悩みました。それで彼はローマ人への手紙7章15、18節でこう言っています。「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしょうとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである」と。この時、彼はクリスチャンでした。そして、こうしょうと言う思いは浮かぶのですが、そうする力なく、できない無力な自分に悩んでいたのです。

 

 ある姉妹がご主人の老齢のお母さんのお世話をしなければならなくなりました。しかし、お母さんを愛する気持ちになれず、親切に温く接することができず、いやいやお世話をしていました。クリスチャンとしては愛をもって温かくお世話しなけれればならにことはよく知っていました。しかし、そうできないために非常に悩んでいました。ある時、牧師が訪ねて来てくれました。それで、その悩みを話しました。牧師は姉妹に言いました。「神さまがご要求されるもの(お母さんを愛し温かくお世話すること)は恵みなくしてなすことは不可能です。そのご要求は、神さまが人間を助けなければならないほど高いものですが、神さまの助けでさえ不十分なほど高いものではありません。そのために、『私は無能無力です。母をどうしても愛することができません。』と告白し、明け渡して聖霊さまに満たされることです」と。それから姉妹は「上からの聖霊の力」を祈り求め始め、やがて聖霊経験をしたのです。その時、聖霊は教えてくださったのです。「私の主人を育ててくださったのはこのお母である。このお母さんのお蔭で主人と結婚することができ、今がある」と。それから聖霊によって愛を注がれ、その愛によってお母さんを愛し、やさしく暖かくお母さんに仕えることができるようになったのです。

 

 イエスさまは「人を生かすのは霊であって、肉はなんの役にも立たない」といわれました。私たちは救われていても心の奥に潜んでいる神中心ではなく、自分中心に悩み、戦いを覚えます。肉的なクリスチャンというのはこの世の地位や権力に重きを置くのです。教会でさえも、そのような思いを持つのです。そのような人は自分の知っていること、あるいは自分のもっているものをもって、見せびらかそうとしたり、高慢になったりします。そのような人は、「主役」でなければ、あるいは自分の意のままにならなければ、「端役」を演じるようであれば、協力しない、自分のやりたいこと以外は奉仕に協力しないのです。

 

 肉的なクリスチャンは目に見えるもの、物質的な価値というものが大きく姿を現わして、神と教会を第一にすることに困難を覚えるのです。日曜日はもっと金儲けがしたい、会社に貢献して認められたい、あるいはスポーツや娯楽などこの世も楽しみと魅力が、神の家の魅力と強く張り合うのです。また、主が要求される時間と労力を出し惜しみするのです。私たちは救われていても心の奥に潜んでいる神中心ではなく、自分中心に悩み、肉との戦いを覚えます。

 

 私が神学生の時、たまたま教授の机の上に成績表が置いてあり、つい見てしまい、そして、自分の成績と他の神学生との成績の比較をし、安心したことがありました。ところがその途端心から喜びと平安が消えました。それがきっかけで、さらに自らの内面が取り扱われました。自分が神学校で学んでいる目的は人間的に成功することである。人にどう思われるかということが第一であって、神さまの栄光のため、そのお心をお喜びさせることのためではないことを知らされたのです。もちろん、校長のところに行って悔い改めましたが、更に「聖霊の力」を受ける経験をしました。私たちは、信仰生活のどこかで「聖霊の力」受ける経験をしますが、そこからさらにさまざまなことを通して、取り扱われ、悔い改め、聖霊経験が深められて行きます。そして少しずつではありますが変えられ成長して行くのです。成長してイエスさまのご性質に与って行くのです。円熟して行くのです。

 

 イエスさまは「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」(49)と約束されました。この力とは、「上からの力」です。これは私たちのまわりにある力でも、私たちの内にある力でもありません。上から与えられる力です。私は京都市の出身です。その京都の母教会の前、道路を隔てた向こう側に市内電車の車庫がありました。そこで、進行方向を変えるため、パンダグラフを前から後ろ、後ろから前にというふうに架線に切り替えるのが見られました。このパンダグラフを通して電車に電気が流れ込みその電流がモーターを動かして電車が動くのです。そのように私たちの力の源は、聖霊なる神ご自身です。そして聖霊が、私たちの人格と霊をコントロールしてくださり、みこころというレールを走らせてくださるのです。聖霊さまが、神のみこころに歩むようにして下さる力です。

 

 この聖霊が①清い生活、私たちの日常生活のどんな細かい所までも清い生活を送らせてくださるのです。この聖霊は②私たちをキリストも証し人としてくださるのです。イエスさまはこう言われました。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」と。さらにこの聖霊は③他の人に関心を向けさせ、愛のわざに生きるものとしてくださるのです。このように私たちを生かしてくださるのは聖霊に恵みによるのです。これは恵みの世界です。私たちが犯しやすい間違いは、適度に良い意志をもった人であれば、聖書が求める基準に歩めるということです。そうではなく徹頭徹尾恵みによるのです。

 

 ある神学生が集会の後、「先生、恵まれる秘訣を教えてください。」とお願いしました。すると牧師は窓の外を指さして「あれは何か」と言われました。そこで神学生は「あれは雪でございます」と答えました。さらに牧師は「雪が解けると何になるか。」と尋ねられるので、「水でございます」、「水はどこに流れていくか」「低い方です」と答えました。その時、牧師は「そうです。恵まれる秘訣は謙遜になることです。」と教えて下さったのです。

 

 聖霊経験の後、大切なことは、いよいよ謙遜にさせていただき、悔い改めを徹底し、聖霊経験を深めさせていただき、変えられ、成長させていただき、聖霊の力によって使命と神の栄光のために生きる者とならせていただきましょう。