『聖霊による生涯』使徒行伝・第2章1〜4節

 キリスト教では大切な記念すべき出来事が3つあります。

 

 一つはクリスマスです。神のひとり子であられるイエス・キリストが人となってこの地上においでくださったことです。イエスさまは聖霊によって乙女マリヤに宿り、そのマリヤより生れ、人となってこの世に来てくださったのです。

 二つにはこのキリストが私たちと同じように地上の生活を送られ、最後に十字架上で死なれただけでなく、三日目によみがえられたということです。

 

 パレスチナで、あるイスラム教の信者がクリスチャンに向かって「お前たちには、このように見える事実の証拠があるか。我々はお前たちをメッカに連れて行って、我々の宗教の創立者の骨を見せることができるぞ!」と言いました。その時、そのクリスチャンは平然として「いいえ、私たちにはそんなお墓なんていらないんです。なぜなら、お墓ではなく、体がそのままそっくりもどってきたのですから」と答えたのです。この世のあらゆる宗教の創立者は、皆死にました。そして、死んだままです。しかし、イエスさまは死に勝利してよみがえられ、今も生きておられるのです。

 

 三つ目には、この救い主であるイエス・キリストの霊、すなわち聖霊が信じ従う者の内に宿ってくださるということです。ロサンゼルスに住んでいる日本人の牧師夫人が日曜日の午後街中を歩いていました。その時、熱心に路傍伝道していた韓国のクリスチャンに声をかけられました。

 

 「クリスチャンですか?」「クリスチャンです」。「ではイエス・キリストはどこにおられますか?」。牧師夫人は胸を指さして「心におられます」と答えました。すると、「あなたは本物のクリスチャンだ」と言ってくれたのです。聖霊が私たちの内に住んでくださるということは、イエスさまが聖霊によって私たちの心に住んでくださることなのです。

 

 イエスさまは十字架にかかられ死んでお墓に葬られましたが、三日目よみがえられ、天の父なる神のもとにお帰りなるまで40日間、この地上にあってご自身を弟子や多くの方々に現わされました。そして、いよいよ天に帰られる直前にこう言われたのです。それが、1章4節、5節です。「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。

 

 イエスさまはご自分が天に昇られ、その後に、待ち望む者に聖霊が与えられるとおっしゃったのです。そこでその約束の「聖霊」を受けるため、エルサレムに帰りました。そして、ある家の屋上の間で、イエスさまの母マリヤ、兄弟、弟子たち120名ほどの人々が10日間、共に、心を合わせて、ひたすら祈ったのです。そして、イエスさまが天に昇られた10日後、「すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」(2:4)とあるように、ペンテコステの日に聖霊は教会に与えられ、一同は聖霊に満たされたのです。

 

 この出来事について、ペテロは使徒行伝2章33節でこう言っています。「それで、イエスは神の右に上げられ、父からの約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである」。ペテロが言おうとしていることは、まずイエスさまが聖霊を受けられ、そして、聖霊が人々に与えられたということです。

 

 つまり、聖霊を与えて下さる与え主はイエスさまご自身であるということです。なぜ聖霊はイエスさまがよみがえられ昇天されてから後に与えられたのでしょうか。それは、聖霊がイエス・キリストの霊であることを教えるためでした。

 

 そして、私たちはペンテコステの後にいます。ですから、イエスさまが「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(1:5b)と言われたことは単なるイエス・キリストの預言ではありません。それは良き知らせであり、今、いつでも「求め、信じ、従う」私たちに与えられるのです。

 

 それで、パウロは、エペソの教会の人々に「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と言ったのです。これは命令形であります。ぜひ、満たされなさいという意味です。

 

 かつて博多湾にクリスチャンの水先案内人のH兄がおられました。博多港に入る汽船が無線で連絡して来ると、昼夜を問わずタッグボートで出かけ、なわばしごを上って、案内すべき船に乗りこみます。そこで、船長に「私が命令権をとってよろしいでしょうか」(May I take command?)と聞き、船長が「どうぞ」と答えますとH兄は船長に代わって、船の全責任をもって、命令を下し、思うままに船を動かして安全に港に導き入れるのです。

 

 そのように、私たちが罪を悔い改め、いっさいの主権をイエスさまに明け渡す時、聖霊は私たちのうちに来て下さるのです。それが、ガラテヤ人への手紙2章19〜20節です。

 

 それだけではありません。パウロはガラテヤの教会の人々に「御霊によって歩きなさい」(ガラテヤ5:16)と勧めています。「歩く」というのは「生活する」という意味です。つまり、聖霊に満たされるだけでなく、日々、日常生活を、聖霊によって歩きなさい。生活しなさいと勧めています。

 

 それでは、「聖霊による生涯」とはどのような生涯でしょうか。それは、救われた恵みの生涯よりもさらにまされる恵みの生涯です。 

 

1. きよい生活を送ることです。

神さまを除外したこの世は汚れた罪深い世界です。そこで、きよい生活を送ることはとても難しいことです。それだけではありません。ローマ人への手紙7章15節以下を見ますと、パウロがどれほど内的な罪によって苦しんでいるかが書かれています。

 

 パウロが言うことには、私は自分がしたいという善をしないで、自分がしたくない憎んでいる悪をしてしまうということです。パウロは言いました。何が私の心の問題なのだろうか。それは、私の心に別のもの、罪が宿っていることを知ったのです。

 

 それを聖書では、肉と言います。ガラテヤ人への手紙5章19節から21節を見てみます。「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、およびそのたぐいである。……」。これは犯した罪ではなく、生来の罪で、原罪とも言います。

 

 パウロはこれらの罪のために葛藤していたのです。これらに勝利して日常生活を送るは、聖霊の力なくしてはできないのです。それで、聖霊の力が必要です。そして、聖霊は弱い私たちにきよい生活を送らせてくださるのです。

 

2. 心に自由を与えてくださるのです。

 私の経験から言いますと、聖霊による生涯が始まったその時から、心が自由になったことです。クリスチャン生活が束縛されたものから自由にされたのです。しかし、これは私の経験というよりも聖書の約束です。

 

 聖霊による生涯が始まりますと、①教会来ることや礼拝が喜びとなります。②聖書を読んだり、祈ることが苦痛でなくなり、喜びが心に充満し、祈りには力が満ちてきます。③クリスチャンとの交わりが楽しくなります。④これまで心引かれていたこの世の楽しみに、さほど心引かれなくなります。そして、イエスさまに、教会に、人々の救いに目を向けるようになるのです。

 

 これらはみな、聖霊に満たされ、イエスさまが心に来て下さる結果、起こることなのです。しかし、クリスチャン生活に自由がないと外側からなそうとしますから、非常に窮屈なお勤め、宗教規律の遵守になってしまうのです。真のクリスチャン生活は、あくまでも、内なる恵み、いのちが外側に溢れ出て具体的なクリスチャン生活の形になって現れるのです。それは聖霊によるのです。

 

3. 聖書がよく分かるようになるのです。

 ペテロはかつて3度もイエスさまを否んだのです。ところが、ペテロは使徒行伝2章32節でこう言っています。「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである」。

 

 約束の聖霊が下った時、ペテロは新しくされたのです。ペテロはまず聖書に対して目が開かれました。彼の説教は前もって準備されたものではありませんでした。聖霊に満たされた弟子たちが様々な国語で話すのを聞いて、驚きあやしんだ人々に対して即座になされたものです。そして、それはすべて聖書に基づく証言でした。

 

 ヨハネによる福音書16章13節に「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。御霊は自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」とあります。この約束通り彼は聖書が何を告げているかに目が開かれたのです。

 

 私は聖書を読むのが楽しくて、楽しくて、それを抑えきれないのです。それは、聖書が分かるようになったからです。

 

4. イエスが分かるようになるのです。

 また、ペテロはイエスさまに対して目が開かれました。ペテロをはじめ弟子たちは3年ばかりイエスさまと生活を共にしました。その中でイエスさまは彼らに十字架と復活について一度ならず語られましたが、彼らはイエスさまのことも、十字架や復活による救いのこともほんとにはわかっていませんでした。

 

 しかし、聖霊が下った結果、ペテロはイエスついて正しく理解することができたのです。コリント人への第一の手紙に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(12:3)とあるとおりです。たとえイエスさまと生活を共にしていた弟子たちでも、聖霊によるのでなければイエスさまが主であることはわからないのです。このようにして聖霊だけが聖書をわからせて下さり、イエスさまをわからせてくださるのです。

 その結果、いついかなる時でも、イエスさまに信頼し、ゆだね、導きに従って歩む者とされるのです。

 

 イエスさまは、「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、私の証人となるであろう」(使徒行伝1章8節)と言われました。聖霊による生涯を送ると共に主の証人として、イエス・キリストを証しする者となりましょう。

 

 この恵みを継続するために、毎日、デボーションの時を持つことです。そして、日々、みことばによって、イエス・キリストにお出会いし、心に聖霊をお迎えすることです。そして、聖霊に満たされて歩み、このイエス・キリストを証しする生涯を送りましょう。