『信仰の選択』創世記13章8節~18節

 私は二人兄弟で、弟が一人おり京都に住んでいます。今から45年ほど前に、その弟が家を建てるために土地を求めていて、家族で捜したことがありました。何ヶ所も捜して、ここが神さまの備えてくださった土地であると信じて、現在の金閣寺の近くの土地に家を建てて住んでいます。関西方面に出かける時に、その弟の所に泊めてもらうことがあります。その時、あちらこちらと土地を探して歩いた時のことを思い出して、都会で神さまが良き地を与えてくださったと感謝することがあります。 

 

 今日の聖書の箇所は、アブラム(これからはアブラハムと呼びます)とその甥であるロトが土地を選ぶ出来事が記されているところです。二人の選び方は対照的です。私たちはこの地上にあって、毎日、小さいこと、たとえば買い物のようなことから大きなこと、さらに、時には非常に大きなことで後々に影響するようなことを選ばなければならないことがあります。ですから人生は選択の連続であると言っても過言ではありません。

 

 ところで、私たちお互いは、主イエス・キリストによって救われ、神さまを信じる信仰によって生きる者とされました。その私たちが、どのように信仰によって選択し、信仰によって歩み、どのような目的のために信仰によって生きていけばよいのかを学びたいと思います。

 

第一 神に導きをゆだねる

 アブラハムは、彼がハランにいた時、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」との主の言葉を聞きました。そこで、彼は、「主が言われたように」その住み慣れたハランの町を出で立ったのです。彼は妻サライと甥のロトとすべての財産、人々をたずさえて主の示されるカナンのシケムの地に着きました。

 

 神さまはアブラハムにその家族だけで行くように命じられたのですが、彼は「神さまちょっと待ってください。私は75歳ですし、年を取っています。甥は若いから、あれを頼りにして連れて行きます」とロトを一緒に連れて行ったのです。

 

 神さまに導かれたカナンの地でしたが、飢饉があり、エジプトに逃れます。そこでアブラハムは大きな失敗をし、最初の所に戻って来たのがこの13章です。

 

 そのエジプトでアブラハムもロトも多くの財産やしもべたちを得ました。貧しい時は互いに助け合っていました。しかし、人間の欲望には際限がありません。豊かになりよりたくさん財産を得たいという欲が加わったのでしょう。アブラハムのしもべとロトのしもべたち、両方の牧者の間で牧草や飲み水をめぐる争いを始まりました。そして、それがくり返されるようになったのです。そのためアブラハムは平安や喜びを奪われ、家庭にはごたごたが続き、悩まされる日々となりました。それだけではありません。「そのころカナンびととペリジびとがその地に住んでいた」(7b)とあります。この争いが、これらの異邦人の前に主の民としてあかしにならないだけでなく、彼らの物笑いの種になりかねない状況となりました。このままでは神を信じていない人々のつまずきを与えることになります。アブラハムはそのことも大きな心配事となったのです。

 

 そこで、アブラハムはロトに提案します。その一つは、無益な争いを直ちに中止することです。それは内輪もめや角の突き合いが決して良い結果を生まないからです。また、周りのカナン人たちにもあかしならないからです。二つには、そのためにお互いに別行動をとり、新しい土地に移住するということでした。それは増えた家畜を養うためにはもっと広い土地が必要だったからです。そこで、「全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きます」(9)と言いました。

 

 これに対してロトは目を向けてヨルダンの低地全体を見渡し、かつてエジプトで見た地のように豊かな土地に見えたのです。彼は物事の順序から言えば、叔父が選ぶように先に選ぶべきことを控えるべきでした。そのようなことには全く無関心で、まもなくその土地に生活の本拠を移しました。その結果として、ソドムに住む不道徳な人々とのつながりを深めることになったのです。一方、アブラハムは穏やかな態度で、謙遜にロトに提案をしたのです。実際にそのあたりの土地は、アブラハムが神さまより賜った土地であったにもかかわらず、彼はロトに選択の優先権をゆずったのです。つまり、ロトは、自分の選択を神に任せませんでしたが、アブラハムは第一にロトに選ばせ、次に自分の選択については、神さまにゆだねたのです。

 

 この出来事は、選択の基準の大切さを私たちに教えています。ロトは物質的な豊かさのみを追求し、目に見えること、自分の都合を優先させたのです。その結果、やがて営々と築いた財産をすべて失うことになります。ところがやせた荒れ地を残されたアブラハムに対して、主は現われて言われたのです。それが14節から17節です。神さまは新しい土地における祝福を約束してくださいました。アブラハムはやせた荒れ地ですが、主が与えられた土地こそが、人の目にはどんなに悪く見えても、神の祝福さえあれば、そこは人に真の満足が与えられる所となると信じて従ったのです。アブラハムの神への信頼に基づく選択のすばらしさを教えられます。

 

 私たちは、神を信じていると言います。しかし、気がついてみると、ロトのように信仰の中心が私自身であって神さまでなかったりします。私が信じた神ご自身より、神を信じた私自身が焦点にあり、主役であったりします。聖書は「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい」。(Ⅱコリント13:5)と言っています。私の信仰がどちらであるか吟味することです。そして今、信じている自分から、信じている相手としての神ご自身に信仰の中心が移されることが大切であり、この信仰の転換はクリスチャンであるなら誰にとっても、どうしても通らなければならない危機的な経験です。つまり、どこかで一切はあなたのものですという危機的な経験がいるのです。

 

 この朝、「私」が神を信じていること、すなわち自分中心の信仰の選択ではなく、私が信じている「神」、すなわち神中心の信仰の選択に生きる者とならせていただきましょう。

 

第二 祭壇の生活

 アブラハムはその後どのような生活を送ったでしょうか。最初に召しを受けてカナンの地に来た時、彼は天幕を張り、祭壇を築きました(12:7~8)。まず、祭壇を築いたのです。12章8節をご覧ください。「主の名を呼んだ」とあります。神との交わりと礼拝の生活です。私たちの現実の生活の中で、神との交わりと礼拝の生活に取る時間は全体から見るとそう多くはありません。しかし、これは、個人生活、家庭生活、社会生活の土台です。

 

 山室軍平先生が『平民の福音』の中でこう言っておられます。「クリスチャン生活とは、水車みたいなものです。水車は4分の1ぐらいは、水に浸っています。そして、それは水の流れに従って動きます。しかし、4分の3は、反対の方向に動いています。そういうことだから、芯棒は回って、米をついたり、いろいろ仕事ができるのです。もし、この水車が、水の中に全部浸れば、水車は回りません。もし、水車が水から上がってしまえば、用を成しません。クリスチャン生活は水車のようなものです」。

 

 社会とは、創造の秩序の世界です。教会は恵みの秩序の世界です。クリスチャンと言えども、この創造の社会に足をつけて、正しく税金を払って、ちゃんとこの世の人と同じように生活するはずです。「私はクリスチャンですけれど、この世の人と同じように、彼らがする通りにします」と言って、水車が全部水の中に入るように、この世にどっぷり浸かってしまたら、あなたの使命を果たすことはできません。神の栄光を現わすことができないのです。また「私はクリスチャンですから、もう社会との付き合いはしません」と、水車が水から上がてしまうように、社会と没交渉になっては、社会から浮き上がり、福音を伝えて行くこともできません。

 

 水車が4分の1ぐらいは、水に浸っています。そして、それは水の流れに従って動きます。そのように、神との交わりと礼拝の生活を大切にし、神のみことばに聞き従うことを土台として、神の祝福にあずかり、使命を果たし、神の栄光を現わす生き方をすることです。

 

 18節にあります。天幕の生活は、旅人の生活です。次々と移動して行くのです。へブル人への手紙11章は信仰列伝と言って、旧約聖書の時代の信仰者の名前が記されています。その8節、9節には、「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ」。アブラハムが天幕を住いとし、そのような不安定な住居で満足していたのは、「ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいた」(10)からです。アブラハムは、天に用意された神の都を待ち望んでいたので、神が示された地に安んずることができたのです。彼はハランから神に召されてカナンの地にやって来たのですが、よそ者でした。土地は借地のようなもので、非常に弱い立場にありました。そのような彼が満足し、揺るぎない生活を送ることができたのは、永遠の都、天国を目指し、地上にあってはただ神の約束を信じていたからです。

 

 小島伊助先生が授業中こんなお話をされました。インウッドという宣教師がイギリスで経験されたことです。ある駅のプラットホームに間もなく出発する列車が停止していました。列車には一人の若い婦人が乗っていて、外のプラットホームにはお姉さんと思われる人とお母さんが見送るために立っていました。汽車の出発の時刻が近づき、お母さんは悲しそうな面持ちでいましたが、お姉さんの方はあっけらかんとしていて、悲しそうでもないのです。インウッド先生は「親子と兄弟ではこれほど違うのか」と感じたそうです。ところがいよいよ列車が出ようという時、お姉さんが言ったのです。「じゃあ!すぐ行くね。」ここで先生はやっとわかったのです。お姉さんは妹の所に自分もすぐ行くので、別れる悲しさより再会の喜びが大きかったのです。お母さんの方は二度と会えないという悲しみがあったのかもしれません。

 

 母の姿は、イエス・キリストの救いにあずかっていないために、希望がなく将来何が起ころうとしているか知らない。ただ年をとって、身体が弱っていく、あるいは健康でもただ自分の思いのままに生活しているだけである。それに対して、姉はクリスチャンとして、妹が姉を待っているように、やがてすべてを完成に導かれる再臨の主が待っていてくださるという再会の確かさと希望に生きているものです。天に召されるその時まで、地上にあって、世界を支配しておられる神を信じる者として、神中心の信仰の選択と祭壇の生活を土台とした個人生活、家庭生活、社会生活を送り、主から託されった使命を果たし、神の栄光を現わす生き方をしたいと思います。