『あなたの重荷を主にゆだねよ』詩篇55章1~7節、16章23節

 4、5年前にある先輩の牧師をお迎えして新年聖会が開かれたことがありました。その先輩の牧師が戦前、小学校を卒業した後、旧制の中学に進むのか、社会に出て働くのかを決めなければならない時がきました。そこで最も親しかった同級生の友だちに相談したところ、社会に出て働こうということになり約束されたのです。4月の初旬、路上で約束した友だちが向こうからやって来るのに出会いました。「どこに行って来たの」と聞きますと、「中学に入り、学校から帰るところだ」というのです。その時、牧師は非常に驚くとともに、抑えることの出来ない怒りが内側から込み上げて来たというのです。

 私たちお互いの中で、親しい人、信頼していた人に裏切られるという経験をされた方はその牧師のお気持ちが痛いほどにわかると思います。この朝の礼拝で開かれているこの詩篇55篇を歌ったのはイスラエルの王ダビデです。この中で、裏切られたダビデがその悲しみ、苦しみ、孤独を歌っています。裏切った人物については、いくつかの説がありますが、13節からその人物はダビデの議官アヒトペルであったと言われています。

 私が、この朝、ここから示されているメッセージは、この世にあっての悲しみ(重荷を負う)を経験する時、それを神からの賜物、プレゼントとして受け取り、それを神にゆだね、神にささえられつつ生きることが神さまを信じている信仰者の姿であるということです。

 そこで、「あなたの荷を主にゆだねよ」と題して2つの点から語ってまいります。

 

 第一 苦しみと悲しみ

 ダビデはかつて何の落ち度もなかったにもかかわらずサウロ王から命を狙われ、死と隣り合わせの逃亡生活をせざるを得ませんでした。また、ダビデが王となりようやく王権も国も安定して落ち着いた生活ができるようになりました。ところが、息子のアブサロムが反乱を起こしエルサレムから逃げざるを得なくなりました。その時、自分の議官(顧問)であったアヒトペルがアブサロムに味方して、ダビデを裏切るのです。

 そのことが12節から14節に語られています。13節をお読みしてみます。「しかしそれはあなたです。わたしと同じ者、わたしの同僚、わたしの親しい友です」。王であるダビデのように高い地位にあり、親しく付き合い、互いによく知り合った間柄であることが分ります。以前は一緒に神の宮で礼拝し、共に語り合い、働き、苦楽を共にした、その友アヒトペルが敵となって裏切ったのです。

 その時の絶望的な気持ちが2節から5節にあります。「わたしは悩みによって弱りはて」(2)、「敵の声と、悪しき者のしえたげとによって気が狂いそうです」(3)、「わたしの心がわがうちにもだえ苦しみ、死のおそれがわたしの上に落ちました」(4)。

 1~5節に記されているような絶望的な気持ちは無縁だと思われる人もあるいはおられるかもしれません。しかし、感情は説明し難いものです。後輩の牧師を指導するような女性の牧師がおられます。その牧師がまだ若い頃のことです。ある夜、実のお兄さんの女の子どもさん、姪御さんが救急車で大学病院に運ばれました。直ぐに自動車で病院にかけつけました。そのような時、教会員の兄弟姉妹には、まずお祈りすることですといつも教えておられたのですが、そのことは全く忘れてしまいました。そんなにあわてなくてもよかったのですが、救急車で運ばれた経緯、病状を聞いていた自分に後で気が付いたというのです。

 私たちは、失恋でも、失業でも、家族のことでも、夫婦喧嘩や約束の時間に遅れた時でさえ、「悩みによって弱りはて、もだえ苦しむ」という感情を経験することがあるかもしれません。ところが、私たちはそのような気持ちのままで、この詩篇を根拠に神さまに訴えることが許されているのです。その時、ゲツセマネの園で「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」と悶え苦しまれたイエスさまに出会うことができます。イエスさまご自身も、孤独でした。そして、愛弟子のユダに裏切られ、弟子たちがイエスを捨てて逃げ去るのを経験されたのです。神の御子は、そのような悲しみをともに味わい、担う人となられました。イザヤは、それを「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた」(イザヤ53:3)と預言しました。イエスさまは私たちの心が些細なことで混乱することをよく知っていたくださり、軽蔑することなく、一緒に悲しんでくださり、祈りを聞いてくださるお方です。

 ある姉妹の話です。長男が大学に入学されました。大学に行くまでは礼拝を守って、親の願っているように育っていると思っていました。しかし、大学に入学してからは教会に行かなくなりました。生活の仕方も、言動も全く違って来ました。「自分なりに正しく育てたはずなのに、余りの変わりように、自分の育て方が間違っていたのではないかと、自分を責め、悔い改める日々を暗い気持ちで送っています」と話されました。 

 しかし、先ほど言いましたように、イエスさまは私たちの心が些細なことで混乱することをよく知っていたくださり、軽蔑することなく、一緒に悲しんでくださり、祈りを聞いてくださるお方です。

 ですから、自分の魂に向かって、「お前は不安なんだね……さみしいんだね」と言ってそれをやさしく受け止めながら、しかも、「私ってなんて可愛そうなんでしょう!」などという自己憐憫に逃げ込むことなく、「主よ。私は不安です。……さみしいです」と、祈りを変えてみることです。条件を付けず、素直な心で祈ることです。その時、それは、心の奥底で神との交わりを体験する絶好の機会となるのです。

 詩篇50篇15節に「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。とあります。先ほどの女性の牧師ではありませんが、悩みの日には、なかなか神を呼べない私たちです。しかし、本当に神を呼ぶ時、神は答えて神のわざを拝し、神をあがめずにはおれなくなるのです。自分に頼らないで、本当に神を呼ぶ祈りこそ、それこそ御霊に導かれた祈りです。

 

 第二 あなたの重荷を主にゆだねよ

 苦しみに耐えられなくなると、人間だれしも思うことは、そこから逃れることです。6節、7節に「どうか、はとのように翼をもちたいものだ。そうすればわたしは飛び去って安きを得るであろう。わたしは遠く逃れ去って、野に宿ろう」。たとえ荒野でもよい、とにかく逃れたいと思うものです。しかし、ここを読みながら、人間は皆同じところがあるのだなと思わされました。私は常日頃、自分に向かって「この問題から逃げ出さずに、しっかり向き合え!」と叱咤してきたからです。私よりもはるかに勇敢なダビデが、逃げだしたいような思いになっているのです。 

 しかもその上で、逃げ場のない自分の現実を言い表わしています。ダビデの住む町の中には「暴力と争い」「害悪と悩み」「しえたげと欺き」(9~11節)が満ちているというのです。

 人によっては、現在の職場がそのような環境かもしれません。逃げ出したくても、生活のために逃げ出せません。そればかりか、最も近しいはずの人が最も恐ろしい敵となっているというのです。一緒に仕事をしなければならない人が敵となるのです。また、たとえば家庭で精神的な虐待を受けるなら、どこに逃げ場があるでしょうか。彼らは自分の悪意を巧妙に隠しながら、21節にそのことが描かれています。「私はあなたのためを思って……」などと言いながら、実際には「そのままのあなたには生きる資格がない」という隠されたメッセージを伝え、生きる力を奪い取っているということがあるのです。

 私たちの目の前には、神が「わたしの願いを避けて身を隠して」(1)と思える現実が繰り返し起こることがあるかもしれません。しかし、ダビデは、苦しみの中で、諦めることなくじっと祈り続けることを通して初めて、自分の訴えの声が確かに神に届いていたことを体験したのです。それで、そのような四面楚歌の中で、「しかしわたしが神に呼ばわれば、主はわたしを救われます」(16)と歌っています。そこで、生ける神との出会いを経験したのです。

 それで、あまりの苦しさに逃げ出そうとしていたダビデが、22節で「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。」という信仰に立つようにと勧めているのです。「あなたの荷」とは、「与えられたもの」「課せられたこと」で、カルヴァンは「賜物」と訳しています。「ゆだねる」とは「投げ出す」という意味ですが、賜物を放棄せよということではありません。ペテロの第一の手紙5章7節に「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」とあります。「ささえられる」とは、「心配してくださる」「保持する」「励ます」という意味です。つまり、自分の重荷や思い煩いや恐怖感を、そのまま神の前に差し出すと、主はその重荷をささえてくださるのです。神さまの救いは、あなたの重荷を取り去ることではなく、重荷や思い煩いをささえてくださるのです。

 人間にとって大事なことは、苦しいから荒野に逃げることではなく、その重荷をそこで主にゆだねることです。その時、主はその重荷をささえてくださるのです。ところが私たちには、神がはっきりしない時があるのです。それは神さまに自分をゆだねていないからです。本当に神のみわざをはっきり仰ぎ願うならば、すなわち、自分の一切を無条件にゆだねればよいのです。すると神は、そこで神ご自身のみわざをなさるのです。そこで全能の神のみわざを仰ぎ見た私たちは神を崇めるのです。

 神学校を卒業した年、自動車免許の取得のため、自動車学校に通いました。信州の地方の教会で自動車に乗れなければ、働きに支障をきたすからです。卒業1年目で、なかなか時間が取りにくい状態でした。ある兄弟が自分の会社の広い敷地で運転を教えてくださり、私の横に乗って運転もさせてくださいました。お蔭でスムーズに進むことができ免許証を得ることができました。私は免許証を取得しなければならないという「重荷」「課せられたこと」を兄弟にゆだねました。私は兄弟にゆだねた上で、兄弟が教えてくれることだけをしました。私たちは「重荷」を神にゆだねます。そして、後は自分勝手に行動するのではありません。私が兄弟に教えられたことだけをしたように、神のみこころに従って行動するのです。その時、「主はあなたをささえられる」のです。

 私たちは、この朝、「重荷」を神さまから「与えられたもの」「課せられたこと」「賜物」として、自分で負おうとしたり、あるいは逃れようとしたりしないで、「あなたに寄り頼みます」と、「あなたの荷を主にゆだねよ」との呼びかけに信仰によって従うのです。そして、神のみこころのままに従って労するのです。その時、神は必ず支え、みわざを見させてくださるのです。そして、神を崇めることになります。