『勝利の右の手』イザヤ41章・第8節~20節

 イザヤ書41章の時代的な背景は、イスラエルの民がバビロンに捕囚の民として敵地にあった時のことです。この時のイスラエルの民は、神の民といわれるような民ではありませんでした。神の民であるなら、その国は栄えており、その文明を誇るような国であったはずです。ところが、敵地に捕え移されて、「あれが神の民と言われるイスラエルか」と思われるような状態にありました。実に哀れな、惨めな状態にあったのです。そのような状況の中で、「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。……わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、あなたをささえる」と神はイスラエルの民を励まされたのです。

 

 私たちの人生においても、重荷にあえぎ、あるいは苦しみ、「私の人生はこれからどうなっていくのだろう」「私の仕事はどうなっていくのだろう」「私の家庭はどうなるのだろう」と、いろいろな問題に直面することがあります。時には踏みにじられたり、失望落胆したり、心臓の高鳴りを覚えたりすることがあります。しかし、「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。……わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、あなたをささえる」とおっしゃってくださるお方が私たちの信じている神さまです。そこで、この朝は、その神がいかなるお方であるかを、イザヤ書から教えられたいと思います。

 

 第一 選ばれた民

 なぜ、神さまは不信仰のためにバビロンの捕囚となっていたイスラエルの民に対して、「恐れるな」、「共にいて助ける」と言われるのでしょうか。それは、神さまが、イスラエルを「選ばれた」からです。そのことが8節、9節で語られています。「しかし、わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ、わたしは地の果てから、あなたを連れてき、地のすみずみから、あなたを召して、あなたに言った、『あなたは、わたしのしもべ、わたしは、あなたを選んで捨てなかった』と。この捕囚の民が生まれるはるか以前、アブラハムの時代に選んだのであると言っています。

 

 新約聖書を開きますと、パウロは「母の胎内にある時から」選ばれていたと言っています。また、「天地の造られる前から」選ばれていたとも言っています。私はこのようなみことばに出会いますといつも感激します。

 

 私は昭和20年の年末に、京都府の北、母の両親が住んでいる日本海に面した舞鶴という町に移り住みました。それは、大都会の京都は食糧難で私と弟が栄養失調になりかけていたからです。その時、住むことになった祖父母の近くに舞鶴福音教会があり、その教会学校に行くようになったのです。その教会の牧師は谷口詢先生でした。先生は舞鶴湾の日本海に面した三浜という漁村のご出身でした。旧制中学の時代、大正の時代に共産主義が若者を捕えていました。先生も共産主義に傾注しておられたのです。ところが、三浜の村で大火があり、宣教師がお見舞いのために村の小学校で1週間ほどの特別伝道集会が開かれました。谷口青年は、イエス・キリストの福音を聞き、イエス・キリストの救いこそ自分が求めていたものであるとわかり、信じてクリスチャンになられました。やがて召され牧師になられたのです。私がお出会いする25年も前のことです。

 

 それで、「選び」という言葉を聞く度に、ヨハネ15章16節を思い出します。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」。そして、生まれるはるか以前にすでに選ばれていた事を思い、感無量になるのです。

 

 信州におりました時、熱心な姉妹がよくお祈りで「多くの人に先だってこのような罪深い者を選んでお救いくださいましたことを感謝いたます」と祈られ、その度に、わが身にあてはめて、神さまが私のようなものをあえて選んで救ってくださったことを覚え、心は感謝で一杯になり信仰を強められました。

 

 私たちクリスチャンは「19○○年に救われた」と、いうだけではありません。それも大切ですが、まだ私たちが生まれる前から、神さまは助ける対象として選んでおられたということです。人生のどのような戦いの中を通ることがあろうとも、そこを助ける対象として選んでおられたということです。これは、人間の思いや、計画をはるかに超えた驚くべき恵みです。

 

 しかも「あなたを選んで捨てなかった」と言われるのです。「あなたを選んで、連れてきて、私のそばに召して、あなたを捨てなかった」と言われるのです。時々、私たちは「神さまに捨てられたのではないか」と思われるようなところを通されることがあります。祈っても、祈っても、暗い霧は晴れず、どんなにもがいても、どうにもならないことがあります。しかし、神さまは「捨てない」とおっしゃってくださるのです。その時、この世が与える平安とは異なる真の平安が来ます。

 

 私たちは、人に裏切られたり、親しい間柄であったものが疎遠になったり、捨てられえるような経験を通して、神さまをそのようなお方として信じやすいのです。しかし、この朝、もう一度、私たちが生まれる前から、神さまは助ける対象として選んでおられたということです。ですから「恐れてはならない」のです。「恐れることはない」のです。人生のどのような戦いの中を通ることがあろうとも、助ける対象として選んでくださった、神さまを信じ固く立ちましょう。

 

 第二 御手による助け

 私たちを選んで下さった神さまは「捨てない」と言われ、「助けて」と言われるお方です。きょうの聖書の箇所に3回「助ける」という言葉が繰り返し語られています。10節、13節、14節です。神さまは私たちが必要としている時、天から見ていて、「お前たちは大変だな。助けるぞ」と言い、「ソレッ」と御祓いをするようなお方ではありません。「勝利の右の手をもって」つまり、「私の手をさしのべて」「助けて」くだるお方です。

 

 3日(木)の午後7時から須賀川シオンの丘で教区青年部主催の賛美集会がありました。最後に到着したのが兵庫教区で、先生とあと4人の青年が自動車で14時間半かけて来てくださいました。大雨で高速道路が不通になり大幅に遅れたそうです。その賛美集会が9時に終わり、帰ろうとしていましたら、船田献一牧師が、「先生、マッサージしてもらったらどうですか」と言われ、時子も一緒にしていただきました。献一先生がいわきの仮設住宅でした時、「みんなマグロのようでした」と言っておられたように、私たちも布団上にマグロのようになってしていただきました。この教会で四重唱の時、バスを歌ってくださった兄弟がしてくださいましたが、私のどこが凝っているかよく知って、痒い所に手が届くように30、40分くらいマッサージをしてくださいました。その時、神さまは私たしたちがどのような助けを必要としているかよくご存じで、神の手はそこに届く手であることを教えられました。

 

 日野原重明先生が医学生の時、結核になられました。当時は不治の病と言われ非常に恐れられていました。先生は「もうこれで終わりか」と思い、すっかり落ち込んでおられました。そのような時、お母さんが休んでいる先生のところにきて、背中とベッドとの間に手を入れてくれました。毎日それをしてくれました。それは、どんな卵や栄養剤や薬を飲んだよりも嬉しかったというのです。そして「母というものは、本当にありがたいものだ、と思った」とおっしゃっています。長くベッドで寝ていますと床ずれができます。そこに、お母さんが手を入れてくれたのです。「ああ、この母の手が本当の医療だな」と、先生は知ったというのです。神さまも「私の右の手、私の手であなたを支える」とおっしゃっています。床ずれができ背中の皮が破れてしまうように、「やっぱり人生というのはこんなものかな」「もうこれで終わりか」という時、神が愛の御手をもって背中をさすって、ベッドとの間に手を入れるようにして支えてくださるのです。

 

 この当時のイスラエルの民は神がおられるとしても人間の出来事の中に関与しておられない考え、それを自分勝手な生活をし、不信仰な生活する言い訳してきたようなところがありました。今の世にも、同じように日常の生活に、今日の生活に神さまがどう干渉しておられるかついて何も感じないで、自らの歩みをよしとする人がいっぱいいることを知っています。逆に、困難、苦しみの中にある時も、神は何の救いの手も差し伸べてくださらないと考えている人もいます。しかし、神はその日常の生活の中で、現実の中で私たちの助けを必要とするところに御手を差し伸べ、支え助けてくださるのです。

 

 第三 選びの光栄

 神さまがイスラエルを助けられたのは、彼らが特別に民族としてふさわしかったのではありません。経済的に、軍事的に、宗教的、霊的に際立って神さまに喜ばれるような特質があったのではありません。それで、神さまはイスラエルのことを「虫に等しいヤコブよ」と言ってそのことを表しておられます。

 

 しかし、神さまはそのイスラエルを見捨てられないだけではなく、助けられます。それだけではなく、変貌させてくださるのです。それが15節です。「見よ、わたしはあなたを鋭い歯のある新しい打穀機とする」。これは麦の収穫の時のことを言っています。日本では脱穀機でやりますが、イスラエルの国では、木の大きな板に石の歯をつけて、それを引くことによってその穂から粒をとったのです。「打穀機」とはそのことです。ですから、使っている間に、石の歯が丸くなって穀物がよく落ちなくなるのです。それに新しい石の歯をつけ替えると鋭い石の歯によって、収穫がたくさんできるのです。

 

 「私など生きていてもなんの役にも立たない」「生きている意味が見いだせない」というような人を、神さまはイエス・キリストの十字架によって救い、人生の山も丘も打ち崩して行くような者にする、変えると言われるのです。そのことが言われているのが、14節b、15節bです。「あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である」「あなたは山を打って、これを粉々にし、丘をもみがらのようにする」。

 

 テトスへの手紙2章14節を開いて見ましょう。「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない」。「ご自身のもの」とは文語訳では「特選の民」と訳されています。これは、美術展覧会などでよく用いられることばです。最も優れたりっぱな作品を選んでこれを表彰するときのことばです。神さまがイエス・キリストの十字架の血によって救われたのはこのような特選の民を作るのが目的でした。すなわち、特選の作品が目立つように、私たちを通して神さまが目立ってくださるためなのです。

 

 そうかと言って、自分がクリスチャンであることを吹聴するようにということではありません。しかし、だれにも気づかれず、その生活の仕方も、その人の在り方も、世間一般の人と少しも区別がつかず、その言うところがなんの変わりもなく、何年交際していてもその人がクリスチャンであることが、少しも分からないようでは、あまり誉められた話でないばかりか、その人の信仰が本物か疑われます。自己充足の信仰は、あなたを殺してしまいます。あなたが安心して、「自分さえよければいい」という生涯を送らせるための信仰は、異教的な考え方です。

 

 神さまは私たちを選び、救ってくださいました。そして、御手をもって助けてくださいます。それは、神の栄光を求めて、神の御前に祈って「主よ、あなたは私の主です。わたしはあなたのしもべです」と、本当にへりくだって行く時、どんな大変なところを通ることがあっても、姿変わりさせられて、新しい力に満たされてご奉仕し、この世にあって人々の前に光を輝かせて、神の栄光のために生きる者とされるのです。