『神の約束を信じて』民数記13章25節~14章3節

 イエスさまはマタイによる福音書5章から7章で有名な「山上の垂訓」と言われている説教をされました。その説教を終えられる7章の最後の箇所で、岩の上に自分の家を建てた賢い人と砂の上に自分の家を建てた愚かな人のお話しをして終えられました。ここでイエスさま人生についていくつかの大切なことを語られました。その一つは、人生は選択であると言われたのです。その選択は単なる選択ではなく信仰の選択で、イエスさまのおことばを土台とした人生を送るか、私の思いを土台とした人生を送るかということです。

 今日の聖書の箇所はモーセがエジプトを出立した200万人とも言われるイスラエルの民を、40年間、荒野を導いた最初の頃の出来事です。モーセはエジプトを脱してから40年後に、約束のカナンを目の前にするアラバまで来て天に召されます。その直前、イスラエルの民に40年を回顧して語ったのが申命記です。その最初に取り上げているのが、このカデシ・バルネアの出来事です。それは、イスラエルが神の約束を信じ、従わなかったために、約束のカナンに11日間で行けるところ40年を要するようになった失敗の出来事だからです。

 それで、新約聖書も「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試練の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(へブル3:7~8)と警告しています。そのイスラエルの大きな失敗から、神の約束を信じ、従うことの幸いを学びます。

 第一 神の約束よりも自らの判断を優先した

 イスラエルの民がエジプトで奴隷として塗炭の苦しみの中にあった時、神に救を叫び求めます。神さまはモーセを指導者に立てて、奇蹟のみ手をもって、200万とも言われる民を救われます。民がカデシに到着するまでの間、さまざまな問題がありましたが、その都度、神は忍耐をもって民を導かれここまで来ることができたのです。

 1節に「わたしがイスラエルの人々に与えるカナンの地」とあります。そして27節に「そこはまことに乳と蜜の流れている地」で、神が約束された素晴らしい地でした。神さまはエジプトや荒野の生活にはるかにまさる地に導こうとされていたのです。ところが、いよいよ約束のカナンに入ろうとした時、10人の斥候の報告を聞いて、そんな地に行けば滅びてしまうと、神さまの約束を信じないで、彼らの判断を優先させてカナンに行くことを拒んだのです。

 私たちも救われて信仰の歩みをして来ました。さまざまな中を守られて来ました。ところが、その私たちも、自分の判断、すなわち人間的な判断では、とても前に進めないと思えるような状況に立たされることがあります。しかし、それは、私たちがエジプトという罪の世界から、イエス・キリストの十字架によって救われて、恵み溢れるカナンの信仰生活を送るために神さまが備えられたものなのです。ですから、その時、神の約束を信じて、私たちは、自己中心の信仰ではなく神中心の信仰に立つ、すなわち、自分の判断ではなく、神の約束を信じることが大切です。

 ある神学校の先生の本の中に書かれていたことです。4月に入学した新入生が例年の通り、祈祷会で証しをしました。新入生は、自分の生い立ち、救い、献身についてかなり詳しく証しすることになっていたからです。彼の証しにその先生も恵まれました。ところが、その日だけそこにおられた先生が、その新入生の証しについて、「自分がどうした、こうしたではなく、証しというのは主がどのような方で、何をしてくださったかを語ることであって、自分のことをこまごまと言うことではない。」おおよそそのような内容のことを言われたのです。神学校の先生は、多少証しの仕方に足りないところはあったかもしれないが、気の毒に思ったそうです。しかし、信仰の意味について考えさせられたというのです。そのつもりではないのですが、気がついて見ると、信仰の中心が私自身であって神さまでなかったりするのです。つまり、私が信じた神ご自身より、神を信じた私自身が焦点にあり、主役だったりするということを思わせられたということです。

 私たちは、信じている自分から、信じている相手としての神ご自身に信仰の中心がはっきり移されることが大切です。そこにきよめの恵みがあります。「私」が神を信じていることから、私が信じている「神」への信仰の転換をクリスチャンはだれでも通らなければならないのです。つまり、自己中心の信仰ではなく神中心の信仰に立つことです。私はどうしたらよいだろうかと思われる時、「イエスさまだったらどうされるだろうかと考える」イエスさまのなさる判断に従う信仰を神さまは求めておられるです。

 

 第二 神のことばより人のことばに従った

 神さまはイスラエルの民をエジプトから解放し、紅海を開いて道を設けられました。荒野の旅では昼は雲の柱、夜は火の柱をもって民を導かれました。ですから、この時までにイスラエルの民は神のことばを経験していたはずです。

 その民たちのところに、40日間、約束の地を偵察した斥候たちが帰って来ました。そしれ、カレブとヨシュアを除く10人の斥候たちが、こう報告するのです。「しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます。……わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」(28~29、33)。この報告を聞いたイスラエルの民は神の約束のことばよりも人のことばを信じたのです。

 アブラハムという一人の人の信仰の歩みが、創世記の中であれほどの分量を占めている事実には大きな意味があると思います。彼は神の召しを受けた時、神のことばを信じて「行く先を知らないで出て行った」(へブル11:8)のです。これはすばらしい信仰の出発です。行先がどんな所か、何があるのかわからない。しかし主の約束のみことばを信じて故郷を後にしました。私たちがイエスさまを信じて救われ、初め主に従う決心をした時も、同じようであったと思います。この後、神さまがどのように導いてくださるのか全くわからないで、しかし、信じて従ったのです。

 しかし、その後の彼の行動は玉石混交です。妻サラを妹と偽って彼女を危機に陥れました。もし自分の安全を優先させたのだとすれば、自己中心の信仰と言わざるを得ませんでした。主の直接の干渉がなければそれで終わっていたような感じです。でも創世記13章では、ロトに好む土地を選ばせるという、すばらしい信仰の人、愛の人、配慮の人でした。

 ところが、アブラハムも創世記15章、16章では跡継ぎのことで失敗をします。神さまの約束のことばが待てなかったのでしょう。サラのつかえめハガルによってイシマエルが生まれます。これは家庭に大きな問題が生じることになります。それから14年待ってイサクが生まれます。ところが神さまはそのイサクをモリヤの山で燔祭としてささげなさいと命じられるのです。アブラハムはイサクをささげるためにモリヤの山に向かいます。以前のアブラハムなら、人間中心を脱し切れていない彼なら、この時重大な矛盾に苦しんだはずです。なぜなら、約束された子どもがまだイサクにいないのに、燔祭としてイサクをささげてしまったら子孫を得る可能性を自ら断つことになるのではないか、と。神さまの約束と命令は二律背反です。私たちがアブラハムの立場に置かれていたら、「主よそれは矛盾です。不可能です」と叫ぶのではないでしょうか。しかし、アブラハムは人間として自分の思考の限界をそのまま神さまのなさることに持ち込まなかったのです。彼は神のなさることは最善で、すべて御手の中にあるとの信仰に立ったのです。

 このアブラハムの生涯を通して教えられることは、地上での私たちの信仰の歩みの現実では、人間中心と神中心の信仰が混在しているようでありますが、螺旋階段のように信仰に成長していくこと。またアブラハムがそうであったように、信仰によってみことばに従う時、神の祝福があるということです。人の声ではなく、神のことばに従う信仰に立ちましょう。

 

 第三 摂理と導き

 イスラエルの民はエジプトを脱出して、神さまが約束されたカナンの地の南端を望むカデシに来たのです。そこでモーセは主の命じられたように、12部族を代表する斥候を、つまり、偵察隊を約束の地に遣わすのです。彼らは40日かけて約束の地を探り終えて帰てきます。そして、カレブとヨシュアの二人は、カナンに入ろうと主張しました。しかし、他の10人はやめようと言ったのです。多数決は大切なことの決め方です。しかし、いつでもよいとは言えません。人々は10人の声に聴き従い、二人の声に耳を傾けようとはしませんでした。後にこの10人と他の人々は、一人としてカナンの地を踏むことなく、みな荒野で死にました。カレブとヨシュア、そして荒野で死んだ彼らの子孫だけが入国したのです。彼らの不従順こそがその一生を決定するものでした。

 神さまはアブラハムを選び、そこからイスラエルの民が生まれ、エジプトの苦しみの後に、荒野を通ってカナンの地に導かれました。そのことを通して、神さまがなさることには必ず目的があり計画があるのです。

 私たちも同じように神さまの約束に従う時、なぜこのようなところを通されるのかわからないことがあります。しかし、神さまには必ず計画があり目的があります。その目的が果たされるために、主はすべてをもって導かれるのです。わからないことが知らされるにしても、神の最善の時があり、神の知恵があります。私たちは、わからないことはわからないこととして、主にお委ねすることです。そして、大切なことは第一に、人には多くの考えがある。しかし主のみむねのみが立つ、主のみこころが成るということ。第二に、私たちは主のみこころに忠実に従わなければならないということです。

 彼らの前に横たわるカナンとは、かつてはエジプトでは経験できなかった、驚く祝福の地です。この世ではいかなるものをもってしても味わうことのできない、幸福と満足。それにもかかわらず、彼らは神の全能を見ずに、アナク人と城壁をみたのです。

 私が神学校を卒業して最初に遣わされた地の隣町の教会に50歳を過ぎたひとりの姉妹がおられました。若い頃、献身に導かれて神学校に行かれたのですが結核に罹られ、退学して実家に帰られ、それ以来、独身で過ごしてこられました。せっかく献身に導かれたのにと思われるような生涯でした。しかし、その教会の牧師のために祈り、助け、その教会を建て上げ宣教のために大きな働きをされたのです。神さまは姉妹に対して計画と目的をお持ちになっていたのです。

 カナンは天国の型ではありません。なぜならば、そこにはまだ、滅ぼすべき多くの敵がおり、攻略すべき城壁がありました。カナンとはクリスチャンが世の罪悪と戦い、悪魔の城壁を打ち破って、勝利から勝利へと、日々喜び溢れ感謝に満ちた生活を送りつつ、前進、また前進、ついに永遠の御国に到着するに至る生涯を意味するものです。このような恵みの生涯こそ、神が私たちクリスチャンに等しく期待しておられるところです。

 その地を探ったヨシュアとカレブは言いました。「ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません。」(14:9)

 私たちは、人の目にはどのように見えても、人がどのように言いふらしても、神のお考えと、神のみことばと、神のご目的を信じて、従って、カナンを占領し、恵みから恵みへの信仰生涯を歩んでまいりましょう。