『夜明けの岸辺に立つイエス』ヨハネ21章1~14節

 妻の父は船乗りでしたが、定年後、親類の建築会社で手伝いながら、自分で釣り船を買って、瀬戸内海に釣り客を乗せて出かける仕事をしていました。私たち家族が行きますと、喜んで船を出してくれましたが、大漁に獲れる時の喜びは格別で、その醍醐味を今でも忘れることは出来ません。

 今日の出来事は、テベリヤの海で夜通し漁をしたのですが、何も獲れなくて、疲れ切っている弟子たちに、イエスさまはご自身を現されたのです。そのイエスさまが舟の右の方へ網をおろして見なさいと言われ、そのおことばに従うと、網を引き上げることができないほどに沢山の魚が獲れたのです。そのあと、イエスさまは朝食を準備しておられ、疲れと落胆の上に空腹である弟子たちをもてなされたのです。

 このことを通して、十字架にかかられ死なれたイエスさまは復活され生きておられるお方であり、主がいかなるお方であるかを弟子たちが深く経験することになりました。そのイエスさまについてこの朝は語ってまいります。

 

 第一 岸辺に立っておられるイエス

 この時、どうして弟子たちはガリラヤのテベリヤ湖にいたのかということであります。それは、イエスさまが捕えられる夜、弟子たちに、「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」(マタイ26:32)と告げておられました。また、イエスさまを丁重に葬るためにお墓に来た婦人たちに御使いが、「イエスはあなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう」(マルコ16:7)告げられていたからです。

 弟子たちというのはペテロ、ヨハネ、ヤコブを含めて7人です。弟子たちは知らされていたようにガリラヤ湖でイエスさまにお会いできることを期待しつつ幾日かを過ごしていました。弟子たちの多くはガリラヤ湖でかつて漁師していました。懐かしい故郷の湖、舟も網もあります。そこでペテロは他の弟子たちを誘って、夜、漁にでかけました。普通、漁師たちに言わせると、夜と言うのは魚を獲るのに一番よい時だそうです。それでもその夜は魚が一匹も獲れませんでした。元々漁師でこの湖で漁をしていたその経験豊富な彼らをして考えられないことが起こったのです。それで弟子たちはがっかりして疲れ切っていました。

 ところが、その夜明けの岸辺にイエスさまは立っておられたのです。だれもそれがイエスさまであることは分かりませんでした。弟子たちは、町の人が魚を買いに来る習慣がありましたから、その人かと思ったのかも知れません。その岸辺に立っておられるイエスさまが、弟子たちに「子たちよ、何か食べるものがあるか」と尋ねられたのです。イエスさまは魚が一匹も獲れなかったこと、どんなに疲れているかということもよくご存じで、このようにお声をおかけになったのです。

 イエスさまはいつも愛のゆえに決して私たちに無関心ではおられることはないのです。それで、「岸辺に立っておられたのです」。彼らは、復活のイエスさまにすでに2度会っていました。ですから、イエスさまは生きておられると信じていたと思います。しかし、今、自分たちの側におられるとは信じていなかったのです。私たちも救われた時、イエスさまにお会いしたかもしれません。過去のある出来事の時、お会いしたかも知れません。しかし、イエスさまとの関係は過去のことではないのです。イエスさまは復活されて、今、どのような状況の時にでも、あなたの側に一緒にいてくださるお方なのです。

 戦後間もなくのことですが、あるご夫婦の一人娘がアメリカに留学しました。なかなか手紙が来なくて両親(特に父親)はとても心配していました。1ヶ月も過ぎて手紙と写真が届きました。父親は娘の写真を肌身離さず持っていて、それを見ては、“元気でやてるね”と声をかけ、安心するのでした。ちょうどそれて同じように、イエスさまは肉眼では見ることが出来ませんが、常に、どのような状況でもイエスさまは聖霊によってあなたの側にいて下さるのです。

 イエスさまは復活されてから40日目に弟子たちの目の前で天に昇られました。その時、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28・20)と約束された通り、共にいてくださるのです。へブル人への手紙13章5~6節に「主は、『わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない』言われた。だから、わたしたちは、はばからずに言おう。『主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか』。」ここに、「決してあなたを離れず、あなたを捨てない」とあります。私は、このみことばでどれほど支えられて来たかわかりません。その約束をしてくださった、「イエス・キリストは、昨日も、今日も、いつまでも変わることがない。」(へブル13:8)のです。どのような状況の中にあっても、イエスさまはだれよりもそば近くいてくださるのです。

 

 第二 権威をもって語られるイエス

 主のやさしい温かいことばに対して、弟子たちは魚が一匹も獲れなかったため、力なく「ありません」と答えました。すると、イエスさまは「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」(6)と命じられました。このことばは命令形です。彼らは一晩中漁をして疲れ切っていました。また、舟の右側に網をおろすということは漁師たちの常識に反することですから、イエスさまの命令に従わないこともできたのです。しかし、弟子たちは、イエスさまの命令をそのまま受け入れ、湖にもう一度網をおろしました。すると、153匹の大きな魚が網に満ちるほどに獲れたのです。

 ルカは別のとき、イエスさまが「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」(ルカ5:4)と言われてその通りにしたら、おびただしい数の魚が獲れたと記しています。これらはイエスさまを主として従ったからです。クリスチャンの間でも、自分が愛のわざをしたとか、こんなすばらしいことをしたとか、これは自分しかできないと、その人の行為というものが尊ばれやすいのですが、そうではなく、その人がいかに神に従って生きたかということが、クリスチャンの評価の基準です。

 そのことを、イエスさまはゲッセマネで示してくださいました。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままではなく、みこころのままになさって下さい。」(マタイ26:39)と祈られました。そしてみこころに従われたのです。ですから、人間の思いを超えて迫ってくる神に従い、イエスさまに忠実に生きて行こうとすれば、クリスチャンでなかった時にはなかった霊的な戦いがあるのです。それで、イエスさまは「誰でもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マルコ8:34)と言われました。

 もともと、漁師の経験のある弟子たちでしたが、それでも一匹も魚が獲れなかったのです。弟子たちの知識、経験、努力ではどうすることもできない状況でした。そのような厳しい現状の中で、イエスさまをそれを承知でお声をかけられたのです。その結果、たくさんの魚が獲れたのです。私たちの日常生活で厳しい経験をすることがあります。持てる知識、才能、体験をどんなに駆使しても、期待している成果、結果をあげられないという経験をします。そして、ときには私たちの人生を決定するほどの大きな問題として私たちは突きつけられることもあります。しかし、イエスさまはそのような状況でお声をかけてくださるのです。神さまは聖霊によって、聖書を開いてくださり語りかけてくださるのです。聖書は単に学ぶだけでは語りかけを聞くことはできません。神のみわざを経験することができません。私は聖書を学ぶことは大切だと思っています。しかし、単に学ぶだけでは聖書は開かれません。頭脳明晰でありながら、聖書の神を経験していない人を知っています。日常生活の中で聖書の語りかけを聞く、神のみわざを経験することが大切です。

 私たちはみことばに従うクリスチャン、み声を聞き、イエスさまを日常生活で経験するクリスチャンとなりましょう。

 

 第三 必要を満たしてくださるイエス

 弟子たちは、主が岸辺に立っておられることが分ると、陸地に上がってきました。そこに炭火とその上に魚が載せられていて、パンもありました。イエスさまが弟子たちのために朝食を準備しておられたのです。これは弟子たちにとって非常な驚きでした。

 かつて、アブラハムは長い待ち望みの結果、跡取りイサクを与えられます。ところが、神さまはそのイサクをモリヤの地に連れて行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさいとお声を聞きます。彼は従ってモリヤの山に行き、その子イサクを縛って燔祭としてささげようとして、刃物を執って殺そうとしたときです。アブラハムの信仰の従順を認められた神さまは、「わらべに手をかけてはいけない」とストップされるのです。このとき、角を藪にかけている一頭の雄羊がいたのです。それで、イサクの代わりの雄羊を燔祭として捧げたのです。そのとき、アブラハムはその所の名を「アドナイ・エレ」と呼びました。それは「主の山に備えあり」の意味です。これが、ラテン語になり、英語になり、日本語では摂理の意味になった語源です。ローマ人への手紙8章28節に「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」とあります。心底から神を愛するなら、神さまは「結局のところ愛をもってすべてを善にしてくださる」ということです。弟子たちが見たように、イエスさまのところには私たちの必要が常にあることを見続けたいものです。

 イエスさまは弟子たちに「今とった魚を少し持ってきなさい」(10)と言われ、それから、「朝の食事をしなさい」(12)とあり、「イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた」(13)のです。弟子たちはイエスさまの備えて下さった朝食を食べて満ち溢れるばかりに与えてくださるイエスさまをしっかりと体験したのです。イエスさまこそは私たちの一切の霊肉をみたしてくださるお方です。恵みの源はイエスさまにあります。

 アメリカのある所で、著名人のパーティーが開かれました。その席では、詩が読まれたり、歌が歌われたりして、席を盛り上げたのです。ある有名な歌手が歌いました。拍手喝采でした。その後、引退した老牧師が詩篇23篇を朗読したのです。1節、4節、6節に「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。わたしの生きているかぎり、必ず恵みと慈しみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」しかし、だれも拍手する者がなく、シーンと静まりかえりました。やがて大きな拍手が起こりました。その牧師の体験が主がどのようなお方であるかを明確に示し、生きておられるイエスさまは私たちの必要を満たしてくださると感じ、驚きと敬虔な思いになり出席者は最初は声もでなかったのです。

 19節に、イエスさまは、「これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すため、お話しになったのである」と言われたとあります。死ぬという一番不幸なことにおいても、神の栄光を現すことができるように、神さまは備えてくださるのです。イエスさまは、私たちの必要を満たして下さるお方であり、私たちに栄光を現すような死に方をも備えていてくださるお方であることを感謝し、ただイエスさまだけを信頼して行きたいと思います。