『いのちの主』マタイ9章18~26節

イエスは12年間も長血をわずらっていた女性をいやされました。その間にヤイロの娘が死にます。ところが、イエスはヤイロの娘を死の床から生き返らせなさいました。その出来事をとおして、人の死と生について学びます。

 

第一 避けがたい死

 

イエスが新しい皮袋についてお話しておられたときのことです。ヤイロがイエスのところに来て、娘が死にかけれいるので来ていやしてほしいとお願いしました。ヤイロはひとり娘の重い病気をいやしていただくために、一刻も早くイエスに来てほしかったのです。

 

ところが、イエスはそのようなヤイロの思いとは裏腹に12年間も長血をわずらっていた女性をいやされ、彼女と問答されたのです。一刻を争うときだけに、ヤイロの胸は張り裂けるようでした。そのとき、娘が死んだとの知らせがありました(マルコ五・35)。

 

聖書を知らなければ、死すなわち絶望であり、死が全ての終わりです。しかし、聖書は死をそのように捕えません。なぜなら、イエスは十字架にかかられ死なれましたが、死に勝利されてよみがえられたからです(Ⅰコリント一五・55)。イエスを信じて救われた者には死の解決があり(ヨハネ一一・25~26)、真の希望があるのです。

第二 いのち主

 

ヤイロは娘の死を聞き、いちるいの望が消え去りました。ヤイロの家からの使いは「このうえ、先生を煩わすには及びますまい」と言って、万事は終わってしまったと言ったのです。

 

ところがイエスは、使いの者のことばを無視して、「恐れることはない。信じなさい。」と言われたのです。

 

イエスはいのちの源であり、賦与者です(ヨハネ一・4)。イエスはそれを確証するために十字架にかかって死なれ、三日目に復活され、死に勝利されたのです。

 

死に勝つことのできる人はいません。しかし、イエスは死に勝たれたのです。人間が絶対に勝つことのできない死に勝利されたのです。ですから全てを失ったと思われる最悪の事態の中でも恐れることはないのです。

 

私たちの人生にはさまざまなことが起こりますが、聖霊に満たされ、みことばによって全能の神を信じ、神の時と方法に信頼し、ゆだねて歩みましょう。