12年間も長血を煩っていた女性が、イエスのうしろから近づいてみ衣にさわったところいやされました。女性は人目につかないように去ろうとしましたが、イエスは「わたしにさわったのは、だれか」と言われました。女性「イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した」のです。イエスは今も救われた者が証しすることを望んでおられます。
第1 重荷をもつ者
この女性は、肉体的な悩みがあり、医者にかかりお金を使い果たし、経済的な苦しみの中にもありました。その上、出血の女性は宗教的に汚れた存在であり、人から無視され、のけ者にされ孤独でした。つまり、宗教的にも社会的にも全く希望がなかったのです。
最大の悩みは、自分の問題がいつ解決されるかわからないということでした。しかし、イエスに触れていただくとき、今までとは違った生き方が始まるのです。生き方が変わるのです。主に信頼する生活には主の助けがあります(イザヤ四一・10)。
第2 イエスに触れる
女性は、信仰をもってイエスに触れたのです(20~21)。彼女は「み衣にさわりさえすれば」と、信じて触れたのです。すると病がいやされました。「あるようでないのが信仰である」と言われます。信じていながら「だが本当だろうか」「本当に神を信じていれば生きていけるだろうか」と疑いが頭をもたげることがあります。そして、創造主、贖い主への信頼がしぼむのです。これを聖書は「思い煩い」と呼んでいるものです。
しかし、私たちが十字架によって救われたことを覚え、救い主、人生の主として近づく時、主に触れることができ、いかなる時でも信仰に立てるのです。
第3 恵みの証し
イエスは「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われたのです。するとその女性は一部始終を「みんなの前で話した」のです。すなわち、彼女はイエスに触れた訳といやされたことを話しました。
彼女はイエスに触れて、主がどのようなお方であるか分かり震えました。主は聖なる全能なる愛なる神なのです。私たちも十字架による贖いを経験して神がはっきり分かります。
「みんなの前で話した」とは社会に復帰するためでした。もう一つは、イエス・キリストを証しするためでした。