人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである(ルカ 十九・10)

ありがとう この街で 僕のことを 見つけてくれて ―福山雅治『蛍』より―
冒頭の招きの言葉として掲げさせていただきましたのは、2010年のNHKの大河ドラマ『龍馬伝』で坂本龍馬役を務め国民的な人気を博した福山雅治さんが今年リリースした『蛍』という曲の歌い出しの冒頭の歌詞です。
この曲はラブソングで、ある男女がある街で出会って恋をしてといった経過を詞にされているのですが、冒頭のフレーズの「見つけてくれて」という歌詞が印象的で、喜びに満ちシンボリックに感じられたので取り上げました。

この歌詞を聞いて、思い浮かんだのがザアカイという人物が登場する聖書の場面です。ルカによる福音書の十九章に書かれているエピソードです。

私たちは、この世のさまよい人として、何ごとかを求め、誰かを求めながら、何を求めているのかを、誰を求めているのかすらもわからなくなり、ただ渇きだけを覚え、いたずらに日々を過ごし日常に埋もれている者でした。

社会、組織、家庭といったつながりからの帰属感すらも失われ、誰に認められるでもない、ただ透明な存在としてあることに耐えられず、ある人はリアルな街角に、ある人はネットの中に、出会いやつながりを求めてさまよう人の何と多い時代でしょうか。

誰もが心の奥底に「認められたい」「つながりたい」「愛されたい」と思いながら、心のむなしさ、さびしさを覆い隠すように、沢山の物やお金や、地位や名誉で自身を鎧っていることでしょう。

ザアカイも当時、エリコという街に住むお金持ちでしたが、取税人という蔑まれ疎んじられる職の頭領であったために、同胞からも「ローマの手下、異邦人と付き合っている罪人」と忌避され嫌われ、そのように飢え渇く者だったのでしょう。

ある日、エリコにイエス様が入られた時、救い主としての名声がエリコの街にも伝わっており多くの群衆がまわりを取り巻く中、ザアカイもイエス様を一目見たいと思ったのですが、背が低いため群衆にさえぎられて見る事ができませんでした。

そこで前方にいちじく桑の木を見つけ、そこによじ登ってイエス様を一目見ようと待っていました。イエス様がそこに来られた時に、上を見上げて

「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。

ザアカイの名を呼び、声をかけられ、しかもザアカイの家にお泊まりになると仰るのです。まさにザアカイのその時の気持ちは

「ありがとう この街で 僕のことを 見つけてくれて」

という歌詞のようであったのではないか、と想像されます。

こころ虚しき人、求める人、探す人、門を叩く人すべてを見つけ、声をかけ、心にかけて下さる方がイエス様です。

「失われた者を」誰彼となく、一人残らず、この街で「尋ね出して救われ」ようと日々、あなたの、私の、こころの中を尋ね探して「見い出す」お方です。

心の鎧を脱ぎ捨て、イエス様の元へ下りる時、イエス様はあなたの中に留まり、お泊まりになり、住まって下さいます。

 

『失われた者を尋ね出して救われるキリスト』(ルカ 十九・1〜10)

[ベラカ2010/12/20参照]