『神に喜ばれるささげ物』創世記4章1~13節

教会の本年の標語は「捧げて生きる」―礼拝と証人の生活―です。創世記4章からアベルとカインという二人の兄弟を通して「ま神に喜ばれるささげ者」についてみ言葉から学びます。

1 心から捧げる

兄のカインと弟のアベルは同じように、神のみ前に供え物をしました。しかし、供え物を見ますと捧げる姿(心)の違いが現れています。そのために、神の対応の仕方、扱いが全く違ったのです。

神がお喜びにならなかったのはカインです。彼は宗教的な人ではありましたが、心から捧げたのではなく、義務感、習慣から捧げたのです。

カインの捧げ方は宗教と言うものは、外のかたち、人の目からみて怠るなくするものだと教えています。一方のアベルは真心と愛のこもった、信仰による神の喜んでくださる供え物を捧げたのです。


2 清い心で捧げる

カインが顧みられなかった理由は5節から彼自身にあったことが分かります。そこでカインは「大いに憤って、顔を伏せました」。「顔を伏せる」とは、神との断絶を意味します。

そこで神は、忍耐と愛を持って、悔い改め、神に立ちかえるようにとお声をかけられます(6~7)。しかし、彼は神の声を無視し、アベルを殺したのです。

神は捧げる者の心が清くあることを求めておられます。もし、罪を犯したとしても、悔い改める素直な心を求めておられます。清い心と同時に性格も清められ、すなわち精霊にコントロールされ生きる時神は喜んで受け入れてくださるのです。


第3 身体を捧げる

カインはなおざりに事務的に供え物を捧げ、私たちはキリストの生きた供え物(十字架)のよって買い取られたのです(Ⅰコリント6-20)私たちはキリストのもの、所有とされたのです。キリストが主人であり、私たちは僕なのです。ですから、「私」が私を所有するのではなく、全知・全能なる創造主が、キリストにおいて「私」を所有してくださったのです。ですから生きた供え物として全霊、全身、全生を主に捧げるのです(ローマ12-1)。