2011年5月 礼拝メッセージ


『からの器を携え来たれ』列王記下四・1~7

 列王記下四章にはエリシャの行った四つの奇蹟が記されています。それは、エリシャの力を見せつけるためではなく、①神は生きておられるお方であること。②みことばを通して神に出会い、神に信頼し、ゆだねて日々の生活の中で神の力と満たしを経験することのためなのです。

 

 第一 敬虔な家族の苦悩

 

 「預言者のともがら」の一人が妻とふたりの子を残して死んだとき、大きな負債もまた残しました。その妻は夫が「主を恐れる者であった」にもかかわらず、借金のため子どもが奴隷とされようとしているとエリシャに訴えました。

 

 

 私たちも預言者の妻のように、前途に何の希望ももてないとき、私を助けることのできるただ一人のお方である主イエスのみもとに行くことです(詩篇一〇三・13)。大切なことはただ神に頼る、神に訴える信仰と祈りです。神は私たちを愛するがゆえに、抱えている問題を同じ目線で見てくださるのです。

 

 第二 信仰の従順

 

 エリシャは預言者の妻が自分に出来るとの信頼に立っているかを確認します。その上で「あなたの家にどんな物があるか」と尋ねたのです。すると、「一びんの油のほかは、はしための家には何もありません」と答えましたが、これはエリシャを信頼してのことです。

 

 そこでエリシャはからの器をできるだけ多く集めるようにと命じました。彼女はどうしてそのようなことをしなければならないのかわかりませんでした。ただ人に従うのではなく、主にの名によって立てられている者に従ったのです。つまり神に従ったのです(ヘブル一一・1)。

 

 第三 神のみ声を聞く

 

 エリシャは彼女に、「戸の内に閉じこもり」なさいと命じます。私たちも自分の計画や予定、今直ぐにしなくてもよいものを締め出して、心の耳を神に向け、神の声を聞くことが大切です。

 

 そこでエリシャは「すべての器に油を注いで、いっぱいになったとき、一つずつそれを取りのけておきなさい」と。彼女は神が働かれると信じてエリシャの命じるままにしたのです。

 

 彼女はそれを売って負債を払い、残りで生活することができました。神のみことばに従うとき聖霊に満たされ、必要が満たされ、持てるものを主に差し出すなら用いてくださるのです。

 

『主イエスの願い』マタイ九・35~38

 きょうの聖書の箇所は伝道の使命を思う度に、教会で読まれてきたみことばです。ここには伝道に対する「主イエスの願い」が記されています。イエスが今どんな深い、熱い思いをもって、日本の救いを願っておられるかを教えられるところです。

 

 第一 イエスの洞察力

 

 イエスはガリラヤの町々村々を巡回し、教え、宣教されました。イエスは霊的洞察力をもち、人の真相を見抜かれるお方でした。そのイエスには人々が霊的には病んでいて、悲惨であわれむべき状態に見えたのです。彼らの姿は「飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている」(36)という悲惨な姿でした。羊には三つの特徴があり人間の性質ときわめて似ているのです。①迷いやすい。②弱い。③安心がない。イエスはそのような人間を「深くあわれまれた」のです。それは、自分の肉体が、心が切り刻まれるような愛の思いで、深くあわれまれたのです。

 

 第二 イエスの使命

 

 マタイはイエスがいつもしておられたことを「御国の福音を宣べ伝え」(35、四・23)と書いています。つまりマタイは、イエスがいつも伝道しておられたと語っているのです。

 

 そのイエスが弟子たちに「行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ」(一〇・7)と命じておられます。つまり、弟子たちのするべきことはイエスのお働きを継続することでした。

 

 イエスは今日の教会に対して、私たち個人に対しても「私と同じ仕事をしなさい」と言っておられるのです。

 

 ですから、35節から38節までの言葉は私たちにとっては、悔い改めを迫る言葉です。

 

 第三 私たちの使命

 

 真の救いを知らない人々に対して「彼らを深くあわれまれた」イエスは弟子たちにこう言われたのです。「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」(37~38)と。 

 

 ある人たちは伝道者が起されるように祈りなさいとの意味に取ります。しかし、本当に祈っていく時、「私は福音を伝えているが、私の痛みを知り、私の憐れみを少しでも知って、分かち合う者になってほしい」というイエスの願いが迫ってくるのです。そこに私の伝道の動機があるのです(コロサイ一・24)。

 

『信仰のごとくなれ』マタイ九・27~31

 主イエスはふたりの盲人に、「わたしにそれができると信じるか」と言われ、いやされ、ふたりの目を開かれ見えるようにされました。このことを通して信仰について学びます。 

 

 第一 あわれみの神

 

 イエスが会堂司ヤイロの娘を生き返らせ、ご自分の家に向かっておられたときのことです。ふたりの盲人が「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と大声で叫びながらイエスについて来ました。

 

 「ダビデの子」とは「救い主」を意味します。彼らはイエスのことを聞いて知っていましたが、ヤイロの娘になされたことを知って、約束のメシヤであるとの信仰が与えられたのです。

 

 それで、ふたりは「わたしをあわれんで下さい」と叫んだのです。イエス(神)はかわいそうに思われ、約束を誠実に果たされるあわれみと恵みに満ちたお方なのです。

 

 第二 信仰のテスト

 

 道の途中でいやしを求め続けたにもかかわらずイエスは彼らを無視するかのごとく、一言もお答えになりませんでした。その理由は何も書かれていませんが、盲人たちにとっては信仰の忍耐を試されるときとなりました。私たちも神が特別な理由をもって信仰を訓練されることがあります。

 

 イエスはふたりの盲人に「わたしにそれができると信じるか」と尋ねられました。すると、彼らは「主よ、信じます」と告白したのです。主は「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」と言われ、彼らの目を開かれたのです。 

 

 私たちも全能と全愛の神に求める信仰に立ちましょう。 

 

 第三 神中心の信仰

 

 盲人の目が開かれたとき、主はこのことを口外しないように厳命されました。神の恵みにあずかった者が他の人々に告げるのは自然ですし、むしろ奨励されてしかるべきです。

 

 その理由は、イエスさまがこの世においでくださったのは、現世的な幸福を求める人々の間で有名になることではありませんでした。そうではなく十字架と復活による人々の救いにありました。

 

 ふたりの盲人はそのイエスさまのお心に反したのです。救われた者にイエスが求められることは、主のみこころへの心からの服従です(詩篇四〇・8)。

『イエスの模範』ルカ四・41~52

 ある人が、「すべての偉人の陰には、母の涙がある」、また、「母の感化で作られた品性は、結婚後、妻の感化をもってしても容易にこれを変えることはできない」とも言っています。それほど母の感化は大きいのです。

 

 私たちはそれぞれ母の愛情によって育てられます。その母の愛は増すことはあっても減ずることはありません。こういう愛は、これこそ神の愛の反映です。 

 

 この尊い母の愛に対して、私たちもまた、母のお陰であることを覚え心から感謝し、その期待に答える人生を送らせていただきたいものです。

 

 イエスはおおよそ30歳で公生涯に入られましたが、それ以前のことについて聖書はほとんど語っていません。ただし、イエスが肉体的に、精神的に(40、52)健全に成長されたことが感じられます。

 

 唯一12歳の時、過ぎ越の祭りでエルサレムへ上られたときの出来事が記されています。そのことからイエスは両親の深い、こまやかな愛情の中で育まれた精神的な成長を見ることができます(47、48)。

 

 お母さん方は、子どもは、自分がお腹を痛めて自分で産んだ自分の子どもである、という観念があってはならないということです。これは子どもに対する愛情の源にはなりません。子どもに対するは母親の愛情は、神が人間に対してお持ちになる愛情の標準にまで高められ、きよめられて初めて混じりけのない母親の愛情となるのです。神は私たちを救ってくださり、そのような親に成長させてくださるのです。ほんとうの親子の愛情は、人格と人格の触れ合いです。

 

 イエスは両親に「仕えられた」のです(51)。また社会的な成長も遂げられました(52)。それには、両親の生き方が大きく影響したことでしょう。両親は毎週シナゴーグで礼拝をささげられた。家庭礼拝をささげること、寝る前に宗教教育をすること、子どものために時間をかけて祈ることは大切です。「祈りの子は滅びないのです」。

 

 イエスは30歳まで大工として家族を支えられました。そして公生涯の終わりに、十字架におかかりになったとき、苦しみの中でお考えになっていたことは母マリヤのことでした。その母を愛弟子ヨハネにゆだねられたのです(ヨハネ一九・25~27)老老介護の時代です。両親はもとより(箴言二三・25~26)、主がおゆだねくださった人たちをお世話できることを栄誉と考えて仕えたいものです。