2011年の主日礼拝説教要旨


『すべての人を照らす まことの光』ヨハネ一・1~13

ヨハネはイエス・キリストの誕生を、人々の光としてこの世に来られたと紹介しています(9)。

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『インマヌエルによる救い』イザヤ七・10~14

 毎年クリスマスを迎えるごとに、必ずと言ってよい程に読まれたり、あるいは触れられたり、解き明かされたりする聖書の箇所がイザヤ書七章14節です。

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『キリストの証人』使徒二・22~33

 ペンテコステの日にペテロが聖霊に満たされて語ったのが今日の箇所です。彼はイエス・キリストの福音を知らない人々に語ったのですが、これを聞いた三千人が救われ洗礼を受けたました。今もクリスチャンに神が願っておられることは聖霊に満たされキリストの証人となることです。

 

 第一 地上のキリスト

 

 22節、23節にイエス・キリストの三年間の公生涯のことが記されています。彼は多くの奇蹟を行われました。しかし、それは力あるわざに見えたり、不思議に見えたり、イエスが単なる人間ではなく、キリストであることのしるしに見えたりしたのです。

 

 イエスはご自分が救い主であるとの確証のため十字架にかかられて、死なれたとき、彼を十字架につけた人々は勝利したと思いました。しかし、イエスは死に勝利してよみがえられたのです。イエスの十字架は預言され、計画されていたことであり、敗北や失敗ではありませんでした。

 

 第二 復活のキリスト

 

 24節から32節でイエスの復活のことが語られています。ペテロはイエスの復活が事実であることを証拠立てるためにダビデを引き合いに出します。ダビデはイスラエルの民にとって神に順ずる人物でした。

 

 そのダビデが歌った詩篇一六篇8~11節(25~28)を引用して「わたし」とはイエスのことである(ヨハネ一・18)。ダビデにはお墓があるがキリストにはない(29~31)。

 

 また、イエスを裏切ったペテロが聖霊に満たされ、「私はイエス・キリストの証人である」と言って誰をも恐れず、福音を伝えたのです(使徒四・22)。

 

 第三 約束の御霊

 

 ペテロは詩篇110篇を解き明かし、イエスは昇天されサタンが滅ぼされるまで神の御座の右に座しておられます(34~35)。ですから、イエスが実現される国は天上の永遠の御国です(ヘブル一二・26~28)。

 

 そこで、イエスは父から約束の聖霊を受けて、それを注がれたのです(33)。聖霊に満たされるとき、聖霊は助け主、慰め主、弁護者、良き相談相手、真理を知らせてくださいます。また、力の聖霊として、きよく生きる力、愛に生きる力、キリストの証人となる力を与えてくださるのです(使徒一・8)。

 

『御霊に満たされなさい』エペソ五・6~21

 今日はペンテコステ礼拝の日です。復活されたイエスは天にお帰りになる直前、食事されました。その席で「父の約束を待っているがよい」「間もなく聖霊によって、バブテスマを預けられる」と語られました。そのことが成就したのがペンテコステであり、教会が誕生した日です。

 

 第一 贖いの恵み

 

 クリスチャンは贖いの恵みにあずかった者です。イエス・キリストが十字架上で払ってくださった血の代価によって救われたのです。その結果、罪の奴隷、サタンの支配から解放されたのです。それだけでなく、神の子とされ神のもの(属)とされたのです。

 

 罪を犯し、神に背き、神に捨てられても当然の私たちです。しかし、神は、贖われ者として、水の中、火の中を過ぎるようなときも、共にいて守り、顧みてくださるのです。これは驚くべき恵みです(イザヤ四三・1~2)。贖いの恵みが徹底するとき、誰のために、何のために生きるかが分かってくるのです。

 

 第二 聖霊の満たしの必要

 

 贖われるとは、新生することです。そのとき聖霊の証印をおされます。すなわち救われたことを確信する御霊の証しが内に与えられます。

 

 しかし、そこにとどまってはいけないのです。さらにもっと高い山頂を目指して登らなければなりません。それが聖霊に満たされることです(18)。このことは神の命令なのです。神が救われて者に切に期待しておられることなのです。

 

 聖霊に満たされると、生まれ変わるだけではない、内が満たされるだけではない、外に溢れるのです(ヨハネ七・37~39)。

 

 第三 聖霊に満たされるには

 

 聖霊の満たしは贖われた者に対する神からの賜物です(使徒二・38)。ですから、この賜物は私のためであると信じることです。

 

 しかし、神は機械的にこの賜物を与えられるのではありません。その条件は①渇くことです。現在の自分自身に満足を覚えていない。自分の内に肉があることに気づき悔い改める。②「わたしのところに来て飲むがよい」。イエスのところに行って求める(ルカ一一・13)。③「飲むがよい」信仰でそれを取りなさい。感情ではなく、自分の働きでもなく、ただ信仰によるのです。

 

『からの器を携え来たれ』列王記下四・1~7

 列王記下四章にはエリシャの行った四つの奇蹟が記されています。それは、エリシャの力を見せつけるためではなく、①神は生きておられるお方であること。②みことばを通して神に出会い、神に信頼し、ゆだねて日々の生活の中で神の力と満たしを経験することのためなのです。

 

 第一 敬虔な家族の苦悩

 

 「預言者のともがら」の一人が妻とふたりの子を残して死んだとき、大きな負債もまた残しました。その妻は夫が「主を恐れる者であった」にもかかわらず、借金のため子どもが奴隷とされようとしているとエリシャに訴えました。

 

 

 私たちも預言者の妻のように、前途に何の希望ももてないとき、私を助けることのできるただ一人のお方である主イエスのみもとに行くことです(詩篇一〇三・13)。大切なことはただ神に頼る、神に訴える信仰と祈りです。神は私たちを愛するがゆえに、抱えている問題を同じ目線で見てくださるのです。

 

 第二 信仰の従順

 

 エリシャは預言者の妻が自分に出来るとの信頼に立っているかを確認します。その上で「あなたの家にどんな物があるか」と尋ねたのです。すると、「一びんの油のほかは、はしための家には何もありません」と答えましたが、これはエリシャを信頼してのことです。

 

 そこでエリシャはからの器をできるだけ多く集めるようにと命じました。彼女はどうしてそのようなことをしなければならないのかわかりませんでした。ただ人に従うのではなく、主にの名によって立てられている者に従ったのです。つまり神に従ったのです(ヘブル一一・1)。

 

 第三 神のみ声を聞く

 

 エリシャは彼女に、「戸の内に閉じこもり」なさいと命じます。私たちも自分の計画や予定、今直ぐにしなくてもよいものを締め出して、心の耳を神に向け、神の声を聞くことが大切です。

 

 そこでエリシャは「すべての器に油を注いで、いっぱいになったとき、一つずつそれを取りのけておきなさい」と。彼女は神が働かれると信じてエリシャの命じるままにしたのです。

 

 彼女はそれを売って負債を払い、残りで生活することができました。神のみことばに従うとき聖霊に満たされ、必要が満たされ、持てるものを主に差し出すなら用いてくださるのです。

 

『主イエスの願い』マタイ九・35~38

 きょうの聖書の箇所は伝道の使命を思う度に、教会で読まれてきたみことばです。ここには伝道に対する「主イエスの願い」が記されています。イエスが今どんな深い、熱い思いをもって、日本の救いを願っておられるかを教えられるところです。

 

 第一 イエスの洞察力

 

 イエスはガリラヤの町々村々を巡回し、教え、宣教されました。イエスは霊的洞察力をもち、人の真相を見抜かれるお方でした。そのイエスには人々が霊的には病んでいて、悲惨であわれむべき状態に見えたのです。彼らの姿は「飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている」(36)という悲惨な姿でした。羊には三つの特徴があり人間の性質ときわめて似ているのです。①迷いやすい。②弱い。③安心がない。イエスはそのような人間を「深くあわれまれた」のです。それは、自分の肉体が、心が切り刻まれるような愛の思いで、深くあわれまれたのです。

 

 第二 イエスの使命

 

 マタイはイエスがいつもしておられたことを「御国の福音を宣べ伝え」(35、四・23)と書いています。つまりマタイは、イエスがいつも伝道しておられたと語っているのです。

 

 そのイエスが弟子たちに「行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ」(一〇・7)と命じておられます。つまり、弟子たちのするべきことはイエスのお働きを継続することでした。

 

 イエスは今日の教会に対して、私たち個人に対しても「私と同じ仕事をしなさい」と言っておられるのです。

 

 ですから、35節から38節までの言葉は私たちにとっては、悔い改めを迫る言葉です。

 

 第三 私たちの使命

 

 真の救いを知らない人々に対して「彼らを深くあわれまれた」イエスは弟子たちにこう言われたのです。「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」(37~38)と。 

 

 ある人たちは伝道者が起されるように祈りなさいとの意味に取ります。しかし、本当に祈っていく時、「私は福音を伝えているが、私の痛みを知り、私の憐れみを少しでも知って、分かち合う者になってほしい」というイエスの願いが迫ってくるのです。そこに私の伝道の動機があるのです(コロサイ一・24)。

 

『信仰のごとくなれ』マタイ九・27~31

 主イエスはふたりの盲人に、「わたしにそれができると信じるか」と言われ、いやされ、ふたりの目を開かれ見えるようにされました。このことを通して信仰について学びます。 

 

 第一 あわれみの神

 

 イエスが会堂司ヤイロの娘を生き返らせ、ご自分の家に向かっておられたときのことです。ふたりの盲人が「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と大声で叫びながらイエスについて来ました。

 

 「ダビデの子」とは「救い主」を意味します。彼らはイエスのことを聞いて知っていましたが、ヤイロの娘になされたことを知って、約束のメシヤであるとの信仰が与えられたのです。

 

 それで、ふたりは「わたしをあわれんで下さい」と叫んだのです。イエス(神)はかわいそうに思われ、約束を誠実に果たされるあわれみと恵みに満ちたお方なのです。

 

 第二 信仰のテスト

 

 道の途中でいやしを求め続けたにもかかわらずイエスは彼らを無視するかのごとく、一言もお答えになりませんでした。その理由は何も書かれていませんが、盲人たちにとっては信仰の忍耐を試されるときとなりました。私たちも神が特別な理由をもって信仰を訓練されることがあります。

 

 イエスはふたりの盲人に「わたしにそれができると信じるか」と尋ねられました。すると、彼らは「主よ、信じます」と告白したのです。主は「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」と言われ、彼らの目を開かれたのです。 

 

 私たちも全能と全愛の神に求める信仰に立ちましょう。 

 

 第三 神中心の信仰

 

 盲人の目が開かれたとき、主はこのことを口外しないように厳命されました。神の恵みにあずかった者が他の人々に告げるのは自然ですし、むしろ奨励されてしかるべきです。

 

 その理由は、イエスさまがこの世においでくださったのは、現世的な幸福を求める人々の間で有名になることではありませんでした。そうではなく十字架と復活による人々の救いにありました。

 

 ふたりの盲人はそのイエスさまのお心に反したのです。救われた者にイエスが求められることは、主のみこころへの心からの服従です(詩篇四〇・8)。

『イエスの模範』ルカ四・41~52

 ある人が、「すべての偉人の陰には、母の涙がある」、また、「母の感化で作られた品性は、結婚後、妻の感化をもってしても容易にこれを変えることはできない」とも言っています。それほど母の感化は大きいのです。

 

 私たちはそれぞれ母の愛情によって育てられます。その母の愛は増すことはあっても減ずることはありません。こういう愛は、これこそ神の愛の反映です。 

 

 この尊い母の愛に対して、私たちもまた、母のお陰であることを覚え心から感謝し、その期待に答える人生を送らせていただきたいものです。

 

 イエスはおおよそ30歳で公生涯に入られましたが、それ以前のことについて聖書はほとんど語っていません。ただし、イエスが肉体的に、精神的に(40、52)健全に成長されたことが感じられます。

 

 唯一12歳の時、過ぎ越の祭りでエルサレムへ上られたときの出来事が記されています。そのことからイエスは両親の深い、こまやかな愛情の中で育まれた精神的な成長を見ることができます(47、48)。

 

 お母さん方は、子どもは、自分がお腹を痛めて自分で産んだ自分の子どもである、という観念があってはならないということです。これは子どもに対する愛情の源にはなりません。子どもに対するは母親の愛情は、神が人間に対してお持ちになる愛情の標準にまで高められ、きよめられて初めて混じりけのない母親の愛情となるのです。神は私たちを救ってくださり、そのような親に成長させてくださるのです。ほんとうの親子の愛情は、人格と人格の触れ合いです。

 

 イエスは両親に「仕えられた」のです(51)。また社会的な成長も遂げられました(52)。それには、両親の生き方が大きく影響したことでしょう。両親は毎週シナゴーグで礼拝をささげられた。家庭礼拝をささげること、寝る前に宗教教育をすること、子どものために時間をかけて祈ることは大切です。「祈りの子は滅びないのです」。

 

 イエスは30歳まで大工として家族を支えられました。そして公生涯の終わりに、十字架におかかりになったとき、苦しみの中でお考えになっていたことは母マリヤのことでした。その母を愛弟子ヨハネにゆだねられたのです(ヨハネ一九・25~27)老老介護の時代です。両親はもとより(箴言二三・25~26)、主がおゆだねくださった人たちをお世話できることを栄誉と考えて仕えたいものです。

 

『見捨てられない神』マタイ27章45~56節

 イエスがゴルゴダの丘で、十字架につけられた事実は、人類の歴史の中で最も悲劇的な、暗黒の出来事でした。なぜなら、人間が「神を十字架につけて殺した」からです。

 

 午後の三時頃、イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。これは、十字架上の第四言です。このみことばを中心に「見捨てられない神」についた学びます。

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『いのちの主』マタイ9章18~26節

イエスは12年間も長血をわずらっていた女性をいやされました。その間にヤイロの娘が死にます。ところが、イエスはヤイロの娘を死の床から生き返らせなさいました。その出来事をとおして、人の死と生について学びます。

 

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『イエスに触れた女』マタイ9章18~22節

12年間も長血を煩っていた女性が、イエスのうしろから近づいてみ衣にさわったところいやされました。女性は人目につかないように去ろうとしましたが、イエスは「わたしにさわったのは、だれか」と言われました。女性「イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した」のです。イエスは今も救われた者が証しすることを望んでおられます。

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『新しい皮袋に』 マタイ9章14~17節

取税人マタイは救われてイエスの弟子になった喜び、嬉しさを抑えられないでイエスを招いて宴会を開きます。ところが嬉々として食べたり、飲んだりしている光景が背景となって、断食問題が提起されたのです。

そこで、イエスは三つのたとえ話から、新しい恵みの時代が到来したことを話されたのが今日の箇所です。

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『終末に生きる』Ⅰペテロ4章7~11節

ペテロ第1の手紙はユダヤの国から離れて住んでいるユダヤ人クリスチャンに書かれたのです(1:1)。その彼らに大迫害が起ころうとしていました。ペテロはその状況を熟知していて、その苦しい現実を直視しつつこの手紙を書いたのです。

彼はこの手紙を通して、各自の持ち場、立場において主なる神の恵みを味わい知り、そこに堅く立ち、善を行い、積極的に生きるように勧めました。

 

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『取税人マタイの召命』マタイ9章9~13節

マタイは職業柄、ユダヤ人に嫌われ、パリサイ人や律法学者からは非常に軽蔑されていました。そのマタイにイエスは呼びかけるのです。マタイは突然の呼びかけにもかかわらず、非常にはっきりと応答して従いました。その結果、彼は祝福された生涯を送ったのです。

 

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『罪を赦すものイエス』マタイ9章1~8節

イエスはヨハネからバプテスマを受け、荒野で40日の断食をされ、サタンの誘惑をお受けになった直後から「神の国は近づいた」と伝道を始められたのです。そのイエスのところへ病人が病気を治してもらうためにやって来ました。イエスはかわいそうに思いいやされました。そのため、イエスは病気を治してくれるメシヤ、病気の治し屋のような印象をもたれました。

 

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『癒されたレギオン』マタイ8章28~34節

悪霊につかれた(レギオンと呼ばれていた人)人がイエスのよって癒されます。その彼がイエスについて行きたいとしきりに願いました。するとイエスは「神がどんなに大きなことをしてくださったか、家族に知らせなさい」と言われたのです。神が成してくださった大きなことを二つの点から学びます。


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『嵐を静めるキリスト』マタイ8章23〜27節

この聖書の箇所は、わたしたちがこの世の生活にあって何らかの不安に襲われ、こころに恐れを感じるとき、主レスを信じるならば救ってくださり、平安を与えてくださる、そうした出来事です。

この聖書の箇所から、神は、私たちのうちに起こる恐れをコントロールし、静めてくださるお方であることを学びます。

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『キリストのからだなる教会』Ⅰコリント12章12~27節

聖書では教会がどういうものであるか、それを象徴的に現しています。教会は『建物』、「羊の群れ」、「キリストの花嫁」、「ぶどうの木」、「神殿」、などです。

ところが、もう一つとても重要な象徴があります。それは、「教会」は「キリストの体である」ということです。その教会について学びます。

 

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『イエス・キリストの教会』マタイ16章13~20節

新約聖書の中で一番早く「教会」と言う言葉が出てくるのは18節です。この教会と言う言葉は「エクレーシヤ」と言い、「召し出された者の集まり」という意味です。それは、決して「教える会、またはおそわる会」ではないのです。そうではなく、いつも神がその中心においでになり、その恵みに支えられて生きている人々が、その周囲に集まっている集団、民ということです。

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『主が共に』―臨在の主 マタイ20章16~20節

信仰が与えられて素晴らしいと思おうことは、主が共にいてくださることを自覚できることではないでしょうか。

 

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『神に喜ばれるささげ物』創世記4章1~13節

教会の本年の標語は「捧げて生きる」―礼拝と証人の生活―です。創世記4章からアベルとカインという二人の兄弟を通して「ま神に喜ばれるささげ者」についてみ言葉から学びます。

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『まことの食物』出エジプト12章1~13節

神はイスラエルにエジプトを脱出した月(アビブ、太陽暦の34月)正月とするように命じられました。

彼らはその正月を迎える度に、エジプトから救ってくださったことを感謝し、神に従う生活をする信仰の更新の時としたのです。

その出エジプトの出来事から二つのことをまなびます。

 

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『神の民の祝福』イザヤ30章18~26節

イスラエルの民は自分たちをエジプトから救い出し、約束のカナンに導き、約束された神から離れて歩んでいました。そのようなイスラエルの民に対して、立ち返るのを待っておられ、立ち返るものを大いに祝福しようとおっしゃっているのが今日の聖書の箇所です。

 

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『神の民の歩み』詩篇37章1~8節

アンノ・ドミノ、われらの主の支配の新しい年、明けましておめでとうございます。と私たちは、世界を支配される神と共に歩み始めている幸いをおぼえます。

 

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